西から来た女2

2016年9月6日7:00 公開


江戸という地は、京とは随分違っている、と彼女は何度か思ったことを改めて思った。

堅固な造りの寝殿は有り難いと素直に感じるものの、そのものものしさ、静謐とも緊張感漂うと表現すべきかもしれない佇まいには、いつまでも慣れることは出来ないであろう。

(不思議だわ。此処に住まう方々はとてもお優しくて……お美しいのに)

そんな風にこれまたいつも繰り返す感慨を覚え、於振は主君より送られた花が婚家の侍女によって素早く適切に活けられるのを眺めた。

彼女がこの東の地に下って以降居を定めた城の主であり、彼女を娶った男は、征夷大将軍。

今や京におわす主上を権勢では凌ぐ、この日の本一のひとだ、と今は誇らしく感じることを思う。

本来ならば、京より遠く離れた雛の地への輿入れーしかも正室でなく側室の身だーなど、彼女にとって決して好ましい境遇とは思えなかった。

姉でありながら家督を継いだ弟の養女として、それでも彼女は生家で養われ守られていたのだし、弟や一族の者達によって良き婿がねを宛がわれ、一族の一員としてー彼女の心積もりとしては、京でー生きていくのだと漠然と期待していた。

幕府というものが江戸というはるか東の地にあるとは、無論彼女も承知していたが、自分には縁の無い場所、関係ない人々の世界とー他の都人達と同様ー彼女も思っていたのだった。

何故自分がその東の地の支配者である将軍の側室に選ばれたのか理由は知らなかったが、その話を聞いた時は何かの冗談かと思ったし、正直、有り難迷惑な縁談としか感じられなかった。

だが、親族達や弟は非常に乗り気で、彼女や友人等年若い女子衆には非常識でしかなかった輿入れを実現化させてしまった。

姉とはいえ養われる身に過ぎない彼女には抗える筈もなく、またそんな気持ちや意思も元々持っていない。

生まれ故郷、己の生きる場所と信じていた京を涙ながらに離れ、遠い見知らぬ怖ろしい場所へ連れて来られたなどと当初は思い、それは新しい住居となる、巨大で荘厳な城を見た時も、ただ恐れ怯える心地であった。

彼女の心境に変化をもたらしたのは、到着早々、彼女も座所を与えられた奥殿と呼ばれるこれまた広大な城中の一角の主であるという女人との対面の際、だった。

「遠路はるばるご苦労でした。疲れたでしょう?」

幾分冷ややかとは感じる声音であったものの、美しいひとは穏やかに優しく微笑みかけてくれさえした。

目前の女人にとって、己は邪魔者でしかないだろうと思っていたし、また周囲の者達にも種々様々な注意やら諫言、忠告の類いを受けていた。

何と言っても相手は宮家の皇女なのだ。

ー都人達にとって「将軍家御台所」という権勢は灼かかもしれないが遠く得体の知れぬ地位よりも、主上に通じる血筋の御方といった考えの方がしっくり来るし、尊く重要に感じられ、自然彼女の頭も恭しさ恐れ多さに下がっていく。

「左様に控える必要はありません。これからは、私達、同じ御方にお仕えする同胞なのです」

「そ、そんな、皇女様、恐れ多うございます」

これまた思いもかけぬ言葉に動揺して、身分の違いも弁えず言葉を発してしまい、慌てて口に手を当てる彼女に、高貴な女人は一層柔らかく微笑んだ気配がした。

「私は最早皇女ではありませぬ。……そのような呼び方は今後、なりませぬよ。此処は将軍家の城なのですから」

「はい」

「私のことは。……そうね、」

ふいにくすりと悪戯っぽい声と共に、皇女の口調も砕けた明るいモノとなる。

「顕子と呼んで。その方が親しくなれるわ」

「……そんな」

「私も貴方のこと、名前で呼ぶわ。良いでしょう?」

無論、否やを唱えることなど出来ず彼女はただ頷き続けるだけだ。

「では於振殿。今日はゆっくり休んで下さい。明日、良ければお庭に案内しましょう。ここにはとても素敵な場所が沢山あるのよ。貴方のお話も聞きたいし」

「はい」

御台所が優雅な挙措で去るのを再度額を床に着けるようにして見送ってから、彼女はほっと息をつき、家を離れてから初めて己が身を寛げることが出来た。

(なんてお美しくてお優しい御方なんだろう。本当は私の方からご挨拶に伺わねばならぬのに、態々来て下さるなんて)

微妙に周囲の侍女達ーこの城に元々務める者達だーの視線や態度にも責めるあるいは咎めるものが含まれているのは気のせいではないだろう。

彼女達にしてみれば、主君の正妻であり奥殿の主人であるひとに気を遣わせ、足まで運ばせた自分は、とてつもなく無礼で図々しい女と見えたに違いない。

だが彼女は幾分刺々しい周囲の空気よりも、先程僅かながら言葉を交わした、本来ならば雲の上に住まうに等しい女人の笑顔、言葉、その佇まいなどに心奪われー有り体に言えば魅了されていた。

(あのような御方と同じ場所で暮らしていけるなんて。私は何て幸運なのだろう。それに、御名を教えて下さった)

「顕子様」

恍惚とその名を呟く己の声も随分と甘く蕩けそうな音として耳に心地よく響く。

(あの御方と共に……同じ殿方にお仕えするなんて、素晴らしいことだわ。親しくなりたいと仰って下さった)

きっと夫となるひとも優しく穏やかで、場合によっては皇女に相応しく雅やかな殿方に違いない。

そんな風に思ったことで、かなり気持ちが楽になったのは確かであった。

翌日、前言通り、顕子皇女もとい将軍家御台所はまたも自ら足を運び、彼女の元を訪れた。

昨日よりはあっさりと控えめな色目の、だが彼女の目から見れば清楚かつ優雅で、如何にも皇女らしいと感じる衣装に先ずは見惚れてしまう。

「良いお天気で良かった。雨も嫌いではないけれど、長の道中を乗り物に揺られた後だもの。少し足を動かした方が良いわ。……そうでしょう?」

それとも疲れている?などと優しく尋ねられるのに、慌てて彼女は頭を振り、言葉も次ぐ。

「い、いえ。皇女様の仰せの通りでございます」

「ま。駄目よ」

素早くだが柔らかく咎められて思わず口を押さえた彼女の指に、皇女は気さくに触れてきた。

「昨日言ったでしょ。顕子よ。あ・き・こ」

「……」

「言ってみて」

青みがかって見える神秘的な眼差しに捕らえられ、促されるままに尊い名を口にする。

「顕子、様」

「様は嫌だわ」

「……でも……」

他に呼び様など思いつかず口籠もる彼女に、皇女はめっと幾分眼差しを厳しくしてから、悪戯っぽく声を上げて笑う。

「ま、可愛いひとね。そんな顔しないで。大丈夫よ。……私、怒ってなんていないわ」

「……はい」

「じゃ、於振殿。いえ、於振、でいいかしら?」

「はいっ」

名を呼ばれた嬉しさに声を高める彼女に、皇女はますます美しく輝くような笑顔をくれる。

「さ。参りましょう。今日は散策日和ですもの。時間が勿体ないわ」

「はい」

何て気さくで優しい御方なのだろうとまたも感動しながら、彼女は尊い女人と共に庭へ出た。

広くきっちりと整えられた庭に目を丸くしたものの、すぐに彼女の注意と関心は共に連れ立って歩く女人へと集中する。

優美な笑みを絶やさず、皇女が庭に咲く花や置かれた石、規則的に並んでいる木について説明してくれている話の内容よりも、その声音に聞き入り、彼女はあるいは江戸へ下ってきて幸運であったのかもしれない、などと思った。

まだ夫となるべきひとの姿は欠片すら目にしていないが、所詮男は男に過ぎない。

彼女はただ単に子を産む道具として娶られた身でしかないのだし、最初から期待や希望など無かった。

あるいは顕子皇女も、彼女の立場や身上を哀れんで優しくし、気遣ってくれているのかもしれないと思ったが、それはどうでも良い。

如何なる理由であれ、顕子皇女と共に過ごせるのは嬉しかったし、有り難い。

「於振。貴方は江戸へ下ってきたばかりだし、これからも色々と戸惑うことは多いだろうと思うの」

「……はい」

「でも……上様には優しくして差し上げないといけないわ。上様はとても真面目な御方なの。いつも懸命にご自身の務めを果たそうとしていらっしゃる。表の御政務は私達おなごには想像も出来ない程大変なのよ。だから、奥でお過ごし頂く際は、寛いで心地よく過ごして頂けるようにしないと」

「……はい」

「その為には、私と於振も、仲良くして、共に上様に誠を尽くさねば。分かるでしょう?」

「……はい」

正直良く分からなかったが、彼女は皇女の言葉を否定するなどあり得ないという心境に迄なっていたから、無条件で頷いた。

「分かりました。顕子姉様」

慕う心地が無意識に選び出した呼称に、彼女より先に皇女が目を丸くするだけでなく何処か少女めいた初々しさを見せて頬を染め羞じらうのに、彼女は少しだけ心のゆとりを取り戻す。

「……嬉しいわ、於振。そうね、私達、今この時から姉妹になりましょう。ずっとこのお城で共に暮らしていくのだもの。ね、良いでしょう?」

「はい!顕子姉様!」

差し出された白くほっそりと美しい造りの手に胸轟かせながら縋る。

顕子皇女は明らかに今までとは異なる、何処か弱々しく繊細なー消え入りそうなーなんとも愛らしい笑みを見せてくれた。


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綱吉
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天樹院
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