西から来た女

2015年9月6日7:00 公開


まさか実現するとは思っていなかった、というのが飾らぬ顕子の考えであった。

確かに顕子自身、京から下ってきていたが、だからこそ京人等の見識常識というものは知っていたし、特に教育を受けていない女達の考えなど、水溜りより浅いというのが、顕子のー自戒も込めたー認識だったのだ。

だが、夫である四代将軍家綱の鶴の一声、あるいは徳川将軍家の威光甚だしい証、なのだろうか。

あるいは、有能過ぎる程に有能である為に、常に陰謀を企んでいるように見える幕閣連中による根回しが既に為されていたのか。

何にせよ、顕子にとって、不愉快でしかない一連の出来事だった。

「……御台所様、そろそろ御出座になられませぬと」

これまた婚家に忠義な侍女が余計な差し出口をしてくるのも不快であったが、武家の血を引いているとはいえ、顕子は伏見宮家の皇女。

たかが侍女如きの言葉に一々癇を立てたり、己の感情を下の者達の前で露にする事など出来なかった。

「既に上様も、中奥へ渡っておられます」

「……分かりました」

如何に不快であろうと、夫の望みであれば否やは無い。

宮家の皇女であっても、今の世は武家の天下。

顕子の夫は現在の天下人であり、日の本第一の権門、権力者である征夷大将軍であり、正妻であるとはいえ、顕子が逆らうなど以ての外の相手。

顕子の夫であり庇護者であり、支配者であり。

何よりも顕子が己の心を自ら捧げた恋しい男、である。

「御台」

実際、夫の家綱は、彼女の顔を見ると嬉しそうに声をかけ、彼女が弱いーそしておそらく、城に務める御目見え以上の者達も同様、逆らえぬー笑顔を見せてくれた。

この笑顔と、一途で真摯な眼差しで、この広大な江城、更には諸藩各大名家の上に君臨し、皆を支配している絶対者、なのだ。

「上様。ご機嫌麗しゅう、まことに喜ばしゅうございまする」

「うむ」

鷹揚に夫は頷いてみせたものの、侍女等が遠慮して廊下へ下がっていくとすぐに、顕子の下へと早足で近付いて来た。

顕子の手を取ってから。

ふと、小首を傾げて、幾分上目遣いで顕子を窺ってくる。

「顕子?如何した?……何か嫌な事でもあったのか?」

「……」

「何か気に入らぬことがあるならば申せ。……そなたが嫌ならば私も嫌だ」

「……上様」

家綱の円らな黒目勝ちの瞳が己だけに向けられているのを感じると、正直、顕子の意地も妬心も、どうでも良くなってきた。

夫の優しさや思い遣り深い心が変わるとは思えない。

それに既に夫婦となって十年近く経過しているのに、子を産んでもいない妻には何も言う権利などないのだ、と顕子は己に言い聞かせた。

「いえ。良いのです。……本日参る者が、上様のお気に召すと宜しいのですけれど」

「……うむ。だが……」

微妙に曖昧な迷い、に近い気配を夫が漂わせたと気付いて、顕子は夫の為に不安を覚えた。

詰まらぬ事を言う者もいるようだが、夫は人及び機を見るに敏な、まさしく上に立つ者に相応しいひと、だ。

その夫が迷いを覚えるのならば、何か不穏な事が起きているのかもしれない。

恐ろしい天災人災が江戸や近郊を荒廃させたのは、決して遠い記憶ではないのだ。

「上様?如何されました?」

「いや。……私よりも、そなたが気に入ってくれれば良い、と思う。そなたが奥の主なのだから」

「ま。私は上様の思し召しとあらば、否やはございませぬ」

これだけは明らかにしたいと思い、顕子はきっぱりと言い切り、己の声音の固さを誤魔化す為に笑顔を取り繕った。

心優しい夫も微笑み返してくれる。

(そう。私は……お傍にいられれば、それで、幸せ。それだけで、良い)

夫が差し出す手に己の手を乗せる。

今までもこのようにして来たし、今後もこうして共に歩んでいくのだという決意を新たにした。

その日。

江戸城大奥は、京から態々下ってきた側室を迎え、大いなる賑わいを見せた。


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綱吉
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