Walhalla
2015年5月11日7:00 公開 1
その姫と初めて遭ったのは、源二郎が数えで十六の時。
十六で既に源二郎自身が敗残者であり、亡国の徒でもあった。
敗れ去った武田の将であった父共々護送された安土の城はあまりにも豪壮で眩くー一層自分達の惨めさ、情けなさを思い知らされ、生き恥というものがどういうものか、知ったのだ。
それでいて、罪人として勝者であるその当時の天下人の前に引き出された時は、高名でまさしく英雄としか言い様がないー敵ではあってもー憧れの対象であった男を実際に目にすることが出来るという興奮に随分と逆上せていたような気がする。
何しろ相手は源二郎が生まれる前からこの戦国の世を息抜き、小国から身を興しながら己の才覚と武勇のみでまさしく身を立てた男だったのだ。
しかも豪奢なだけでなく優雅なー源二郎が見たことがない異国風な美の結晶であるような気さえしたー城に負けず劣らず、その姿も美しく『綺麗な』男だった。
不可思議なー異国の甲冑と聞いているー黒と金色に輝く身形もまさに誂えたようにこの男には似合っている。
年齢は既に五十になると聞いていたものの、例えば隣で拝跪する父とは比べ者にならぬ程若々しくその容貌や体躯だけでなく身のこなし、挙措の一つ一つがまさしく絵になる、いや人ならぬ色合いと光輝を帯びているように源二郎の目には映ったのだった。
(この御人は天人か)
愚かしい感動さえ覚えた。
それまで源二郎にとって生まれ育った甲斐国及び甲斐国が誇る無敵の騎馬戦団は正しく強き絶対的な存在であったのが、この男に負けたのは当然の理でーいやいっそ下らぬ色あせ朽ちたモノにすら思えた。
(この御人が天下人ならば……いや、この御人こそが天下人なのだから……もし、もしも俺が命を長らえることが可能ならば……この御人にお仕えしたい)
そして素直にそう思いさえしたのだ。
呆然とーいや恍惚とー周囲を固める織田家家臣達の殺伐とした空気にも気付かず、又打ちのめされ土気色の顔で死を覚悟してただ俯く父の姿も目に入らずー源二郎はただその輝かしいひとを無礼な程熱心かつ一途に見つめていたが。
清らかな鈴の音と共に軽い足音が近付いて来たのに何故か視線と注意が動いた。
(?何だ、これは)
いや、おそらく子供なのだ、とは源二郎にも分かったものの、その子供は源二郎が見たこともないような装束を身につけており、又天下人の許へ真っ直ぐにーそれでいて軽やかに舞うような足取りでー駆けてきた、その無造作さに驚いたのだ。
戦場に芸人などを伴い兵士達を慰めるといったことはあるが、芸人の子供がこのように諸侯大名の前で傍若無人な振る舞いをするなどとは見たことも聞いたこともない。
だが。
「さ、ここへ来よ」
信長公がその子供に穏やかに優しい声をかけ、更には己の膝を指し示すのに、子供は全く躊躇いも見せず嬉しそうな笑顔のまま天下人に駆け寄り当たり前のようにその膝の上に飛び乗った。
「うむ、よく似合うぞ。やはりそなたに丁度良い大きさであったな」
信長公も嬉しそうな笑顔と共に子供にそう話しかけ、風変わりな形に結われ帽子らしきものを被せられている小さな頭を撫でる。
子供はますます嬉しそうに笑った。
「伯父上様、これで小督は伯父上様とお揃いでございますね」
「ああ、そうだな。後で共に天守に上ってみよう。今度は違うものも見えるかもしれぬ」
「楽しみにございます!もしかしたら海が見えるやもしれません。それに、船も」
「ははは。乙姫は本当に船が好きなのだな」
桃色に染まっている子供の頬を手冑を付けた大きな手で撫でながら、ゆっくりと織田信長はその切れ長に整ったーだが何よりも鋭く炯々と輝く眼差しを源二郎へと向けた。
「乙姫、そなたはこの者、どう思う?好きか、嫌いか?ー生かすべきか、殺すべきか」
随分気まぐれな問いだ。
しかしどうやら織田家の者達は主君のこうした言動に慣れているのだろう、眉を顰めたり吐息を吐いたりしたものの単純に受け入れているらしく特に声を上げる者は出なかった。
信長公の膝の上に大人しく座ったまま一心に伯父と呼んだ男のみを見上げていた童は、促されるがまま渋々といった様子で源二郎にこれまた目を向けた。
ふいに源二郎は、鋭く己が息を呑みー更には強く今迄意識もしなかった胸の鼓動が高まるのを感じた。
(何だ、これは)
童はじっと源二郎を、日の光の加減なのか、色が薄く琥珀のように半透明の輝きを放っているかのように見える大きな瞳で見つめている。
随分と整った可愛らしい顔立ちであるし、美貌揃いと謳われている織田家の血筋なのだろう、長ずればこれまた相対する者を惹き付けずにはいられぬ存在となるに違いないと簡単に想像出来たが。
(男児、なのか?……いや、先程、『姫』と呼ばれた、筈)
ふいに己でも理由も分からぬままに頬が熱くなってくるのを感じた。
幼い子供(と源二郎は思った。どう見ても、七、八歳にしか見えなかった)相手に何をこのように動揺し、惹き付けられているのだろうと思う。
(姫だとしたらどうだと言うのだ。……こ、このように幼い子相手に何故俺が)
既に元服も初陣も当に済ませ、若年であるのは確かだが己では当然大人だと自身のことを考えている年頃であった。
「伯父上様はこのおひと、いらぬのですか?」
子供は不思議そうに源二郎を見ながらそう天下人に応じた。
愛らしく小首を傾げて更に言う。
「伯父上様がいらぬと仰るのなら、小督に下さりませ。……このように背の高いおひとならば、小督よりずっと遠くが見える筈ですもの」
相変わらず源二郎の方に顔を向けながら、ふいにふんわりと微笑んだ。
それまでも人形のように愛らしくーだが整っているだけに幾分作り物めいて見えていたのが、花のように瑞々しく生き生きとしたーだがそれ故にこそ儚く夢のように麗しいものへと変化したのだ。
「ふ。そうか、気に入ったか」
弾けるような笑い声を上げた後、信長公は子供を抱いたまま立ち上がった。
源二郎に対しては尊大に手を差し招く。
子供の眼差しと笑顔に未だ捕らわれていた源二郎ではあったが、天下人の挙動を無視仕切る程、己の命や身の安全に無関心である訳ではなく、慌てて気を引き締めながら公に対して頭を下げた後、躊躇いなく近付く。
斬られるならばそれ迄との覚悟は既に、囚われた際に出来ていた。
「それ、受け取れ」
言葉と同様無造作に、半ば投げるようにして頼りなく華奢な身体を寄越されるのに、源二郎は慌てて不可思議な装束なだけに掴み所が分からぬ、だが既に何よりも大切と感じてしまっている子供を抱き留め、抱え上げた。
「あ、危のうございまする、このような」
「何だ。其の方、この信長に意見する気か」
底光りする眼で睨み付けられるのに口は噤んだものの、しかしこれは簡単に譲れる問題ではないと思い、目線も顔も逸らさず受け止める。
「……源二郎、様。お気になさる必要はありません」
がふいに腕の中の子供が無邪気に明るい声を掛けてきた。
姫に対して名乗っていない、という事実にはその時は気付かなかった。
無論、眼前の天下人も、彼の名など口にしていない。
「伯父上様は決して、小督を危ない目に遭わせたりはなさいませんもの。源二郎様が受け止めて下さると、お思いになっておられたのでございます」
本当にその通りでございましたし、などと言って又微笑みかけてくるのに、思いっきり動揺して返って源二郎の方が手から力を抜きそうになってしまった。
「まあ、良い。とにかく其の方の命は乙姫に預けた故。良く面倒を見るように」
後で天守に連れてくるのだぞ、などとまさしく言い捨てて、天下人はあっさり源二郎等に背を向けて去っていった。
織田の家臣団は主君の後を追い、源二郎の父親はそのまま引き立てられていきー結局、源二郎は腕の中の子供と共にその場に残された。
てっきり父と共に再び押し込められると思っていた源二郎はつい諦め悪く、潮が引くように消え去ってしまった織田家の姿を逆に求めて周囲を見廻し続ける。
腕の中に抱えたままであった子供がそれを面白そうに見上げているのに気付いたのは鈴の音のような笑い声が聞こえてからだ。
「源二郎様って面白い御方ですね。……伯父上様のこと、お好きなのでしょう?」
子供の細い小さな身体を抱えている腕に手を掛けてくる。
「え」
「私も伯父上様のこと、好きです。源二郎様と私、きっと同じところが一杯ありますね」
「は、はい……」
降ろして下さいますか、と丁寧に訊かれるのに、慌てて源二郎は華奢で小さな身体を気遣いながらー幾分残念に感じながらー依頼の形ではあるが確かに命令でしか有り得ないであろう下知に従った。
信長公の血縁者である事は確かなのだから、敗者に過ぎぬ身には従う以外に道はない。
「あ、あの……あなた様は一体……どなた、なのでしょう」
軽やかに地に降り立ったーやはり伯父と同じく人離れした空気を纏っていると改めて思ってしまうー子供は明るい笑顔のまま源二郎を振り返り、見上げる。
「私の名は小督といいます。今は母上と姉上達と共に母上の兄上であらせられます伯父上様に保護して頂いている身です」
「ということは……浅井家の」
「はい。三の姫にございます」
差し出された手を反射的に握ってしまったものの、自然頬の血の気が上ってしまうのを感じる。
が無礼に当たるであろうから今更手を離すことも出来ずー結果、その小さくとも柔らかく滑らかな肌の感触や、己に向けられた好意的な眼差しに煽られる形で一層身体が熱くなってくる。
「……源二郎様、源二郎様に小督の宝物、見せて差し上げます」
無邪気な少女は源二郎の状態など気にせずーいや気付かないのだろう、まだとても幼いのだと源二郎は思ったー源二郎の手を引っ張って半ば駆けるように歩き出した。
姫は安土城内でも充分顔が知られているに違いない。
姫(と源二郎)が通り過ぎると、家中の武士達や侍女達だけでなく忙しく立ち働いている下働きの者達迄もが笑顔を姫に向ける。
姫も又何とも可愛らしい笑みを、すれ違う者達に惜しみなく与えながら一人一人に声を掛けていく。
(浅井といえば……お市の方様を御正室として迎えながら信長公と諍いとなり、結局討ち滅ぼされた御家、ということだが……)
織田家中にも姫にもそうした蟠りが存在するようには全く見えなかった。
実際、姫の連れに過ぎない源二郎に対しても人々が好意的な目を向けてくるのに返って源二郎の方が戸惑ってしまう位だ。
「さ、こちらです、源二郎様」
姫が嬉しそうに己の名を呼ぶのにも少し慣れてきて、源二郎も自然笑みを返していた。
無条件に与えられる好意に無反応でいられる程、源二郎自身、この無情な世の中や己の境遇に悲観している訳でもないらしかった。
案内されたのは間口も小さく、中も小さな奥まった部屋だった。
格子状に二種類の木組みがされた板が天井や壁、床に迄貼られている。
幼い姫は後は見ずに部屋の奥迄入り、これ又木組みの張られたー姫の身体毎入ってしまいそうなー大きな櫃を開けて中を覗き込みしばらくごそごそとやっていたが、おもむろに白木の箱を取り出して入り口で佇んでいた源二郎の許に戻ってきた。
「これ。小督の宝物」
姫が箱を差し出してくるのを受取りー期待に充ち満ちた大きな瞳と笑顔に負けて、源二郎は蓋を開けた。
幼い少女の宝物など、という侮りの気持ちはしかし、それを目にした途端跡形もなく消え。
感嘆の声を思わず上げながら、源二郎はそれを一心に眺めていた。
手にとってはその美しく精巧な造りのモノを壊すか汚すかしてしまいそうで見つめているだけの源二郎に焦れたように、姫は箱の中からそれを取り出して源二郎の目の前に掲げる。
「これは……」
「小督の、船。伯父上様が下さったのです。異国の……南蛮のぱーどれ達が乗ってきた船なの」
姫自身、その不可思議な形に魅入られたように『船』を見つめながら、幼げな口調で応じてきた。
透けるように白い頬から細い首筋迄、綺麗な桜色に上気させている。
「何日も、何ヶ月もかけて海を越えて来た船なんですって。ね、凄いでしょう、源二郎様」
「はい……」
源二郎が素直に頷いた為か、姫は一層得意げに続けた。
「今度伯父上様が本物の船に乗せて下さるってお約束して下さったんです。ね、源二郎様も一緒に行きましょう」
「え。私が、ですか」
「ええ、だって源二郎様、私の遊び相手になって下さるんでしょう。そう、伯父上様がお決めになられたのだと思います」
「……遊び相手、ですか」
困惑して小さなー自分よりもずっと低い場所にある姫の顔を見下ろす。
「私は十六です。姫の遊び相手を務めるには少々、その、歳を取り過ぎているのでは?姫にはもっと近い歳のご友人か傅役をお持ちになるべきかと」
「まあ、源二郎様も十六歳なのですか。藤次郎様と同い年なのですね」
「藤次郎?」
「ええ」
愛らしく頷いて、姫は宝物だという異国船の模型を源二郎に預けたまま、また櫃のある場所へと戻った。
今度は籐で編まれた文箱らしきものを持ってくる。
「私のお友達。まだお会いしたことはないけれど、ずっと文の遣り取りをしています。すっごく楽しくて面白い方です」
伸びやかな手蹟で宛名書きされた文の面を見せてくる。
「藤次郎様は先月、荒馬を捕まえたそうです。背が高くて黒くて綺麗な馬なのですって。小督にも見せたいと書いてきて下さいました。あと新しい兜をお造りになられたのですって。お月様みたいに光ってるって」
「……そうですか」
どうやら武家の相手らしいがどのような者なのだろうとー幾分面白くない気持ちと共にー不思議に思った源二郎に、姫は一層嬉しそうに寄り添ってくる。
「藤次郎様もいつか船を造るって。そうして異国と交易を始めたいって仰ってるの。私、私もいつか船を造って旅に出るつもりです。船に乗るのならば、おなごの私だって幾らでも遠くへ行けます。海の上ならば何処までも行けるって伯父上様も仰ったし、だから私、」
だがふいに慌てたように小さな手でこれも花の蕾のような唇を押さえて身を引いた。
「いけない、これ、秘密なのに」
「秘密、ですか?」
「だって……」
源二郎に責められたと思ったのか、上目遣いに源二郎を窺うような何とも愛らしい目線をくれて、姫は櫃の側に戻って文箱をしまい込んだ。
「このようなこと、母上様や姉上達に知られたら二度と伯父上様のところに来られなくなってしまいます。ただでさえ母上様も……私が伯父上様をお慕いしていること、良いお顔はされないのですもの」
「……」
姉上など、伯父上様は私に浅はかな考えばかり吹き込まれるなどと仰って私は浅はかではありませんのに、などと唇を尖らせている様子は一層幼い。
確かに母や姉達だけでなく、伯父の信長公にも深く愛され慈しまれている姫なのだろうと、改めて源二郎は思った。
「私はただ、私の知らぬ様々なことについて知りたいし、私自身の目で確かめたいだけなのに」
「ですがそれは……危険な事もございます故」
僅かに言葉を交わしただけだが、確かにこの幼い姫は無鉄砲というより好奇心が旺盛であまり後先を考えない質ではないかという気がしていた。
この姫を大切に思えば思う程、皆心配し無理な行いは止めようとするだろう。
「まあ、でも……何も危ない事などありません。伯父上様は何時だって私のこと、守って下さっています」
嬉しそうに無邪気に応じる姫は確かに己の伯父のことをー魔王、などとも巷で呼ばれ怖れられている男のことをー信じ切っているのだろう。
どう応じれば良いのかー何を言えば良いのかー分からず、源二郎は未だ己の手の中にある船に目線を落とした。
未来を、更には周囲の人の好意と誠意を一途に信じているらしい姫の心は素晴らしいし、己もそうした姫を守りたいし、傷付けたくないとも思った。
だが同時にーこの世はどうしようもなく醜く穢いのだと、姫がこの先生きていく為には何時か知らねばならないだろうし、それは出来るだけ早い方が傷も浅くて済むのではと案じられる。
(だが……)
源二郎は綺羅綺羅輝いている美しい眼差しと、源二郎には見えぬ清らかな光景を求め願っているかのような愛らしい姫の貌を眺めた。
「……姫がいつか、本物の船を、手に入れられることを願っております」
そう告げながら、姫の小さな手に姫の大切な宝物を戻した。
それが彼女、浅井の遺児、織田信長公の義弟であり裏切り者として信長公自身に攻め滅ぼされた浅井長政の三の姫である小督あるいは江との出逢いであった。
そして非常に束の間の、今は幻ともなった彗星の如き天下人との邂逅でもあった。
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