徳川実紀 | 台德院殿御實紀附録

第2巻 第3章

御連枝あまたおはしける?に。薩摩守忠吉…
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御連枝あまたおはしける?に。薩摩守忠吉卿は御同腹にて殊更御したしみふかくおはしましけり。慶長十二年此卿病にそまれ日數へしが。思ひの外に平愈してまうのぼられしかば。御喜大方ならず。さまざまもてなさせ給ひ。さてまかでられし後。又俄に危篤の由聞えければ。大に驚かせ給ひ。その寓居大久保加賀守忠常が芝浦の亭に御親ら渡御ありて。ねもごろに問せ給ひ。其後も御使もて尋給ふ事?えず。いさゝかも病怠らせ給へば。公にも御けしき快く御膳もめし上られ。またおもらせ給ふよし聞召ば。御飮食も常の如くはめし上られず。ふししづみなげかせたまひしが。日比ありて遂にはかなくならせられしかば。御歎大かたならず。しばしが程は闇にくれ惑ふ心地しておはしませしとぞ。其御樣見聞せし者どもゝ。げに友干の御情厚く渡らせ給ふ事。曠古ためし稀なりと。誰も誰も感?袖をうるほさざるはなかりしとぞ。

ご兄弟が沢山いる中で、薩摩守忠吉卿は、同母の兄弟で殊更親しみ深い間柄であった。 慶長12年、忠吉卿は病になっていたのが平癒して登城されたので、秀忠公の喜びは非常に大きく、様々に持て成し、送り返した。 それが又、俄に危篤の報を受けて、秀忠公は大いに驚いた。 忠吉卿の滞在先の、大久保加賀守忠常の芝浦の邸に、秀忠公は直接見舞いに訪れた。 その後も使いをやって様子を尋ねていた。 僅かでも忠吉卿の病が良くなれば、秀忠公も機嫌良く御膳を食したが、病が重くなったと聞くと、飲食も常の如くはせずに、伏し、沈んで嘆いていた。 ついに忠吉卿が亡くなってしまうと、その嘆きは尋常ではなかった。 暫くの間は、闇の中で惑っているような心地であるようだったと秀忠公の様子を見聞きした者達は、このように情け深くあるのは、非常に稀な事だと皆、感涙で袖を濡らした事だった。

一つ違いの兄弟だし、お母さん同じだしでずっと一緒に育っただろうし、特別な弟という前に、現代に通じる「本当の弟」だったんでしょうね。

武德編年集成

第2巻 第4章

慶長十五年三月駿城より還御の時。發?に…
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慶長十五年三月駿城より還御の時。發?にのぞみ神祖仰けるは。義直賴宣の兩朝臣猶いとけなければ。殊に哀なるものにおぼしめす。わがなからむ後も。彼等成立のほど懇に訓戒し給へと託し給へは。公かしこまり申させ給ひ。しきりに御?袖をうるほされ。御道すがら御輿の中にても。御眼を拭はせ給ふを見奉りしものども。その御至性のほどを感じ奉りけるとぞ

慶長15年3月、駿府城から戻った際。 出立に際して、家康公が言うには 「義直、頼宣の両名共、まだ幼い故、一層哀れに思う。儂が死んだ後も、あの者達が立ちゆくよう、懇ろに訓戒してくれ」と秀忠公に託し、 秀忠公は「畏まりました」と応じた。 秀忠公はしきりに涙で袖を濡らし、道すがら輿の中においても目を拭わずにいたのを見た者達は、その誠実さ?孝行心?に感じ入った。

なんか、一人足りない気がするんだけど。。。

創業記

第2巻 第5章

加賀?門利長關原の事終りて後。關東に參…
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加賀?門利長關原の事終りて後。關東に參るべきよしかねて仰つかはされしに。折ふし神祖は京坂にわたらせ給ひし比にて。公御みづから利長を迎へ給はんとて。板橋の驛のほとりに御出ありて。見參の事を悅び仰らる。利長かねてかゝるべしともおもはざりしかば。よろこぶ事あさからず。あくる日まうのぼりしに公には寢殿に出御ありて。利長が座ははるかの下にまうけられ。對面の儀ことに嚴重にして。饗應の樣また善美をつくせり。利長この時はいと口おしき事におもひしとぞ聞えし。金百枚。銀千枚。時服を献り。公よりも鍋藤四郞の御脇差に。金百枚馬鷹そへて給れり。此後には?門いかが思ひしにや。弟利常に國ゆづり。をのれは引こもり居て。再び關東へは參らざりしとぞ。

加賀黄門利長(前田利長)は、関ヶ原の事が終わった後、関東に来るようかねてから要請されていた。 家康公が京大坂に赴いた際、秀忠公自らが利長を迎えようと板橋の駅迄来て、会えて嬉しいと伝えた。 利長はこのように歓迎されると思っていなかったので非常に喜んだ。 明くる日、利長が(江戸城に)参上すると、秀忠公は寝殿から出て来た。 利長の座は遙か下に設けられ、対面の儀も非常に厳重で饗応も善美を尽くしたものであった。 利長はこの時は大変口惜しいことと思ったらしい。 金百枚、銀千枚、時服を献上し、秀忠公からも鍋藤四郞の御脇差と金百枚に、馬、鷹を添えて給わった。 この後、利長はどのように思ったのか。 弟、利常に国を譲り、自分は隠居して、再び関東に来る事は無かった。

マブダチ!と感動した翌日に余所余所しくされてがっかりしちゃったんだろうか。

藩翰譜

第2巻 第6章

細川越中守忠興が見え奉りしとき。天下の…
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細川越中守忠興が見え奉りしとき。天下の機務はいかゞ思ひとりてよけんと宣へば。忠興角なる物に圓き葢せしごとくなるが。宜しからむと答奉れば。尤なりと仰られけり。また老臣列侍せし折から。忠興に人はいかなるを善人といふべきと問せければ。忠興明石の浦のかきがらの如きを。よき人と申べけれといふ。是も御感あり。其のち老臣に問せられ。先に忠興がいひし事を。汝等何と心得しと仰ければ。いづれも何ともわきがたしと申す。時に明石は世に聞えたる風濤の處なり。そが浦に生るかきがらは。浪にもまれすべよくなるなり。人もまたかくのごとく。さまざま辛き目に逢て。人にもまれたるがよきぞと仰られしとなり。

細川越中守忠興が参上した際に。 天下で重要な務めとはどのように考えているかと秀忠公は聞いた。 忠興は、四角いモノに丸い蓋をするような事が宜しいだろうと答えた。 これに秀忠公は尤もだと言った。 又、老臣等が列座している折り、忠興に、 「どのような者を善人というべきか」と問うた。 忠興は 「明石の浦の牡蠣殻のようなものを良い人というのだろう」と言った。 これにも秀忠公は同意された。 その後、老臣に、先に忠興が言った事について「そなた達は何と心得ているか」と問うた。 何れの者も、「何とも分かり難い」と言った。 これに対して、 「時に明石は世に聞こえた風波の荒い場所だ。その浦に生きる牡蠣ならば、浪にもまれて滑り良くなる。 人も又そのように、様々な辛い目に遭って、人にもまれるのが良いのだ」と秀忠公は言った。

忠興さんは捻りが効いてるっていうか洗練されているっていうか(一休さんっていうか……)。微妙に秀忠君と気が合ってるっぽいのは不思議です。(奥さんラブv仲間??)

葛藤?紙

第2巻 第7章

立花左近將監宗茂は。關原の役に逆徒石田…
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立花左近將監宗茂は。關原の役に逆徒石田三成が方人せしをもて。領邑を沒入せられしが。宗茂元來勇烈智謀逞しき者なれば。後にめし出され。奥州棚倉にて一万石たまひ麾下に列せしむ。元和六年十一月に到り。宗茂を御前にめし出され。汝往年の役に順逆を辨じ速に戰をやめ。居城を加藤肥後守淸正に渡し歸降せし處置。御けしきに叶ふのみならず。棚倉の小邑に在て。いさゝかも不平の樣辭色にあらはれず。忠懇をいたす所神妙に思しめす。よて此度舊領筑後柳川城を下し賜はるなり。此後いよいよ忠勤を勵ますべしと仰ければ。宗茂かしこさのあまり。しばし御請の詞も發せず。落?數行に及びしとぞ。

立花左近將監宗茂は関ヶ原の役で、逆徒石田三成等に味方し、領国を召し上げられたが、 宗茂は元来、勇烈智謀逞しい者なので、後に召し出され、奥州棚倉に一万石を賜り、麾下に列した。 元和六年11月になって、秀忠公は宗茂を召し出した。 「過去(関ヶ原において)、順逆を辨じ速やかに戦を止め、居城を加藤肥後守淸正に渡した事など、殊勝であるだけでなく 棚倉の小国にあっても些かの不平も表さず、忠懇を尽くしたのは神妙である。 よって此度、旧領である筑後柳川城を遣わす故、今後、いよいよ忠勤を励むように」と言った。 宗茂は、畏れ多い余り、暫く何も言えず、幾筋も涙を流したとの事だ。

結構特別扱い?宗茂さんもお気に入りな人っぽいですよね☆

家譜
君臣言行?

第2巻 第8章

松平新太郞光政が。はじめて參府して見參…
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松平新太郞光政が。はじめて參府して見參奉りしとき。公には碁をうたせられ。織田常眞入道は大あぐらして。上座にうそぶきゐたり。光政出しかば。新太郞そこへはいりや。伯耆は雪國のよし聞たるが。そふでおぢやるか。勝手にゆき飯くやれ。大炊同道せよと仰られて。土井大炊頭利勝光政をいざなひて。こと所にまかりて御料理下さる。時に同座の人常眞はじめ十三人ばかりなり。膳部のしなは。蕪汁におろし大根のなます。あらめの?物。乾魚のやきものばかりなりしとぞ。その比いと御眞率にして。儉素の御樣思ひしるべきなり。

松平新太郞光政が初めて江戸へ来て、秀忠公に見参した時の事。 秀忠公は碁を打っており、織田常眞入道(織田信雄)は大胡座をかいて、上座に着いていた。 光政が罷り出ると、「新太郞は其処へ入れ。伯耆は雪国と聞いているがそうなのか。勝手に行って飯でも食べるが良い。大炊同道せよ」 と秀忠公が言ったので、土井大炊頭利勝は光政を案内して、台所に行き、料理を出してくれた。 同席の人は、常眞を始めとして13人ばかり居た。 膳部の品は、蕪汁におろし大根のなます、あらめの煮物、乾魚の焼き物だけであった。 真面目で飾り気が無く、倹素の様子を良く知るべきである。

信雄さんは元舅として入り浸っていたんでしょうか。義理の従兄だしね、一応。

駿府土?

第2巻 第9章

藤堂和泉守高虎が夜談の折に。明智日向守…
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藤堂和泉守高虎が夜談の折に。明智日向守光秀は織田殿に登庸せられて。はてには大逆に及べり。光秀が罪申までもなけれど。信長のかゝる凶人をしらで用ひられしは。その過失なりといふを聞給ひ。そは信長があしきにあらず。明智がよからぬなりと仰られしは。君臣の名分を正しうせられ。たとひ君きみたらずとも。臣その道をうしなふまじと思召ての御事なるべし。

藤堂和泉守高虎が夜話の折りに、 「明智日向守光秀は、織田殿に取り立てられた果てに大逆に及んだ。 光秀の罪は言う迄も無いが、信長が、このような凶人と分からずに用いたのも過失である」と言うのを聞き、 「それは信長が悪いのではない。明智が良くないのだ」と秀忠公は言った。 君臣の名分を正しくし、例え、君子が君子足らずとも、臣は臣下としての道を失ってはならないと思っての事だろう。

高虎さんは苦労人なだけにドライな面もありそうですね。

寬元聞書

第2巻 第10章

古今武將の上をさまざま評論ありしとき。…
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古今武將の上をさまざま評論ありしとき。近き世にては織田信長ほど。すぐれて猛勇なるはなし。されどたゞ人の己にしたがふ事のみを好みて。人につかふる事をこのまず。故に思ひの外の災も出こしなり。東照宮の古今にすぐれ給ひしは。よく此處をわきまへ給ひて。?弱その度にかなひ。かつ人の才能あるをそれぞれ見分て使はせられしゆへ。天下の大業を成就し給ひしなりと御物語りあり。

古今、誰が優れた武将かについて、様々に評論があった時に、 「近き世では、織田信長ほど優れて勇猛な武将はない。 だがただ人が己に従う事だけを好んで、人を使う事を好まず。 その為、思ってもいなかった災いを引き起こした。 東照宮が古今の人の中で優れていたのは、ここの所を良く弁えていて、強弱をその度に変えていた。 又、人の才能を見分けて使った為、天下の大業を成就したのだ」 と秀忠公は語った。

秀吉さんについてはスルー?(秀吉さんこそ、人の使い方が上手だったのでは??)

天平將士美談

第2巻 第11章

福島左衛門大夫正則は。關原の城に關東に…
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福島左衛門大夫正則は。關原の城に關東に御味方して。戰功をはげましければ。格外の賞典を施され。安藝備後二國をもて封ぜられ。其後官參議にまで昇せ給ひしは。彼が勳功に報ぜらるる所。また薄しといふべからず。然るにこの人天資凶暴にして。動もすれば舊勳にほこり。朝憲を蔑如し惡行日にまし。藝備二國の人民も常に彼が虐政にくるしむのみならず。國家の大禁とせらるゝ所の城壁を。わたくしに增築しける事聞えければ。これ捨置べきに非ずとて。元和五年御在洛の折から。群臣と再應商議せしめて。まづ正則が許に老臣連署の奉書をつかはされ。其罪を詰問せしめ。牧野佐渡守忠成。花房志摩守正成御使にさゝれ江?に馳下り。正則が第にゆきてこの旨傳へしむ。かねて正則暴?の者なれば。いかなる對捍をせんもはかりがたし。さあらむには天下の騷擾をも引出さんかと案じ思しめして。さまざまその用意どもありしが。御使を迎るに及びて。思ひの外謹で御受し。大御所の世におはしまさんには。正則申べき事なきにも候はず。當代には何をか申べき。たゞとにもかくにも仰にこそ從ふべけれと答ければ。忠成正成の兩人も感?を催し。公にもいとあはれとおぼしめし。かねては藝備兩國を收公ありて。奥の津輕に配せられんと命ぜられしを。あまり程遠き地なればとて。信濃國川中島にうつしかへられ。高井野村といふ所に蟄居せしめらる。はじめ此事密議ありしに。衆議紛々として一决せず。四五日に及べり。其時板倉伊賀守勝重申けるは。井伊掃部頭直孝はいまだ年若き者に候へども。人の足跡踏て雷同の?申べき者にあらず。召問るべきにやと申。よて明日直孝を召て。土井大炊頭利勝事のよしをつたへ。汝が存ずるむねをきこえ上べしと仰下さる。直孝承り。人々の議する所に。異なる事も候はじと申けれど。?て所存を申せと仰ければ。直孝存ずる所は。正則都にめしのぼせ。彼が罪一々にかぞへられて。申ひらくべき事あらんには聞し召入らるべし。もし又領國に下り申開くべしとならば。其意にまかせらるべしと仰下されんか。さもなからんには。御使一兩人を江?に下され仰を傳へしめられ。もし對捍に及び候はんには。江?留守の人々して。誅せられんにすぐべからずと申ければ。藤堂和泉守高虎猶又申旨ありて。其日も事ゆかで明日又議せらるべしと仰ありて。人々まかでぬ。その夜しも井上主計頭正就をして。直孝に傳へしめられしは。明日ひそかに仰らるゝ旨あれば。つとめて裏の門より參るべしとの御旨なり。直孝これを聞て思ふは。今度の事衆議决せずして。日を重ぬれば。世にも泄聞ゆる事あるべし。我今其議に召加へられて。人人の疑うくる事しかるべからずと思ひ。其夜一紙の誓文を書て。夜明るを待て參りしかば。正就御門の?に出迎て導き。常の御座の南?にまいるとき。直孝袖の?より誓文を取出し。指の血そゝぎ正就して獻ず。やがて御前にめされ。汝昨日申つる所の外。又?に思ふ所もなしやと仰らる。直孝謹でさらに?にぞむずる旨も候はずと申上ければ。公仰けるは。われ始より思ふ所に相同じ。しかれども衆議區々なるゆへに。事久しく决せざりき。今は汝が議せし所に從ふべしと仰下され。例の會議の人々に直孝をめし加へ。かの牧野花房の兩人をめし出して。かくは仰付られしとぞ。

福島左衛門大夫正則は、関ヶ原の戦いで関東に味方をして戦功も目覚ましかった為、格別の恩賞を受け、安芸備後二カ国の領主となり、この後、参議に迄、昇進した。 それでも勲功に報いるには薄かったかもしれない。 しかしこの人は、元々が狂暴な性格で、過去の軍功を誇り、国法を蔑み、悪行は日に日に増していた。 芸備二国の人民も、常に領主の虐政に苦しむだけでなく、国家の大禁とされていた城壁を勝手に増築したとの事が、江戸へも報された。 これは放って置く訳にはいかないという事となり。 元和五年に、上洛して京に滞在中の折り、群臣等と再三、議論をし、 先ず、正則の許へ老臣達が連署した奉書を遣わし、その罪を詰問する事となった。 牧野佐渡守忠成、花房志摩守正成が使いに立って江戸に下り、政則の邸に行ってこの旨を伝えた。 政則は乱暴者である為、どのように手向かいするか予測が付かず、そのような際には天下の騒乱を引き起こすかもしれないと秀忠公も思っていた。 色々と用意もしていたが、使いを迎えるのに、正則は思いの外、慎んで受け、 「大御所の世ではないのだから、正則が言える事はない。当代には何を言えるだろうか。 ただ兎に角、仰せに従う」と答えた。 忠成、正成の両人も感涙を催し、秀忠公も大変哀れだと思った。 芸備両国を返上させ、奥羽の津軽に配そうと命じていたのを、あまりに遠い地であろうと、信濃国川中島に移した。 髙井野村という所に、正則は蟄居させられた。 当初、この事では密議を行っていたが、皆の意見が纏まらずに決まらず、4、5日に及んだ。 その時に、板倉伊賀守勝重が 「井伊掃部頭直孝は未だ年若い身だが、人の足跡を辿ったり、付和雷同するような説を言う者ではない。 呼んで意見を聞いてみればどうか」と言った。 それで明くる日、直孝が召し出され、土井大炊頭利勝が事情を説明し、考えを述べるようにと伝えた。 直孝は、議論の場に赴き 「異なる事などないだろうが、強いて所存を述べるように、という事であれば、直孝が考える所では、 正則を京に呼び寄せ、その罪を並べ、申し開きがあるようならばそれを聞くべきです。 もし又領国に下って申し開きをすると言うならば、意に任せると言って下さい。 使者を江戸に向かわせ、仰せを伝えさせ、もし手向かいに及ぶならば、江戸留守の者達に誅せられるだろう」と言った。 藤堂和泉守高虎が、尚、又言う事があってその日も決まらず、明くる日また議論しようと秀忠公が言い、皆退出した。 その夜、直孝に対して、井上主計頭正就を通して「明日密かに仰せになられる事があるので、早朝裏門より参上せよ」と伝えられた。 直孝はこれを聞いて、今度の事では皆の意見が纏まらずに日を重ねれば、世間でも色々と煩いだろう。 自分はその争議に加わって、皆に色々と疑われるに違いないと思った。 その夜、誓文を書いて、夜明けを待って登城した。 正就が門の内にいて出迎えて、直孝を案内し、日頃、将軍の座所である南縁まで来ると、直孝は袖の内から誓文を取り出した。 そして指の血を注いで、正就に渡した。 やがて秀忠公の御前に出ると、 「汝、昨日言った事の他に、又別に思う所はないか」と秀忠公は言った。 直孝は謹んで、更に別に考える旨は無いと言った。 そうすると秀忠公は 「私は当初より、同じ事を考えていた。しかし衆議はまとまらずに、事は久しく決まらなかった。 今は汝が要った所に従わせよう」 と言い、会議の人員に直孝を加えた。 牧野、花房の両名を呼んで、指示を与えた。

会議は堂々巡り~になっちゃったので新人さんにフレッシュな意見を聞いた☆って所でしょうか。

紀年?
藩翰譜

第2巻 第12章

千?の方(公第一御女。秀賴北方。)浪華…
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千?の方(公第一御女。秀賴北方。)浪華の事ありし後は寡居にておはせしが。舊?のあるをもて本多中務大輔忠刻へ降嫁の事さだまり。元和二年九月廿九日御入輿あるべしとせしときに。坂崎出羽守成政いかなるゆへにか。勢州桑名に出たゝせ給ふを待とり。御輿を奪ひまいらせんとする聞えあり。よて柳生又右衛門宗矩等をもて。うちうちなだめ仰せらるゝ旨ありといへども。成政對面もせず引こもりて。家子郞等も戎具を用意し。何となくあやしげなる樣なれば。府下にありあふ諸大名この事聞傳へ。すは事こそ出來たれと兵を集る事大方ならず。よて執政の人々大に驚き。成政が家人等に奉書を下し。汝が主の擧動全く狂氣の致す所にして。禮を失ふといふべし。然しながら叛逆の例に准じ。御沙汰あらんもあはれにおぼしめせば。只今にも成政自殺して罪を謝せむには。一族の中撰み出て。其祀を奉ぜしめらるべし。とにもかくにも汝等よきにはからふべきなりといひつたへければ。その家臣坂崎勘兵衛等相はかり。成政を自殺せしめ其首取て參らせたり。誠は成政を?醉せしめ。晝寢のひまに薙刀とつて首を刎しとぞ。公このよし聞召て。出羽が擧動すでに叛逆に似たりといへども。彼君臣の禮をまもり自殺したらむには。一族の中にてその祀を奉ぜしむべしとこそ思ひつれ。さるに家人等をのが主をたばかり。首刎て獻ずる事無道の至りといふべし。出羽また君臣の禮を失ふのみならず。をのが家僕の爲に害せられしうへは。今更其家つがしむべきにあらずとて。石州津和野城沒入せられ。後々もかゝる不逞のものあらむには。同じ樣に行はるべしと刑典を正しうして。遍く天下に示されしとぞ。

千姫(秀忠公の一の姫。秀頼の北の方)は、浪華の事があって後は、やもめ暮らしであったが、旧縁もあり、本多中務大輔忠刻への輿入れが決まった。 元和二年9月29日入輿となった時に、坂崎出羽守成政が如何なる理由でか、伊勢桑名に姫君の一行が到着するのを待っていた。 姫君の輿を奪おうとしていると聞いて、柳生又右衛門宗矩等が宥めようとしていたが、 成政は対面もせずに引き籠もり、家子郞等も武器を用意して、如何にも怪しげな様子だった。 府内に滞在していた大名達も又、多くがこの事を伝え聞いて、「事が起きるかもしれない」と兵を集めた。 幕閣の人々は大いに驚いて、成政の家人等に奉書を下して、 「お前達の主人の挙動は全く狂気の沙汰だ。礼を失っているというべきだろう。 だが叛逆の例に准じて御沙汰を下すのも(上様は)哀れと思われている。 成政を自殺させ、罪を謝せば、一族の内で祀を奉じるようにせよ。 兎に角、汝等で良きに計らうべきである」 と言い伝えた。 家臣坂崎勘兵衛等は相謀って、成政を自殺させ、首を取ってきた。 真相は、成政を泥酔させ、昼寝をしている際に薙刀を取って首を刎ねたのだ。 秀忠公はこれを聞いて、出羽の挙動は既に叛逆に近いとはいえ、その君臣の礼を守って自殺したならば、 一族の中でその亡骸をその祀をさせるべきと思った。 だが、家人等が主を謀って首を刎ねて献上してきたのは無道の至りと言うべきだろう。 出羽は又、君臣の礼を失ったのみならず、己の家僕の為に害せられた上は、今更その家を継がせるべきではないと 石州津和野城を没収させ、後々もこのような不逞の者があれば、同じように行われるべしと刑典を正しくし、遍く天下に示した。

日記ってことは一次資料?信憑性あるってことでしょうか。(坂崎氏の理由が明確でない所も同時代人の伝聞ぽい)

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