徳川実紀 | 台德院殿御實紀附録
第1巻 第1章
東照宮の公達あまたおはしましける中に。…
東照宮の公達あまたおはしましける中に。岡崎三郞君(信康君。)はじめ。越前?門。(秀康卿。)薩摩中將(忠吉朝臣。)等は。いづれも父君の神武の御性を禀させられ。御武功雄畧おゝしく世にいちじるしかりし中に。獨り台德院殿には。御幼齡より仁孝恭謙の德備はらせ給ひ。
何事も父君の御庭訓をかしこみ守らせられ。萬づ御旨に露違はせ給はで。いさゝかも縱恣の御擧動おはしまさゞりき。
かゝれば世に仁柔にのみ過させたまひしかと思ふものもあれど。神祖の大統をうけ給ひ。繼體守文の任に當らせ給はんには。たゞ三郞君等のごとく武勇にのみほこりて。治世安民の德おはしまさではいかゞあるべき。
すでに關原の役は。上方蜂起のよし下野の小山に告來りしとき。秀康卿は悅喜のさま顏色あらはれ。忠吉朝臣はいさみはやらせ給ひしに。公には何となく憂悶の御樣に見えたまひしを。
其比の人。御嫡位失はせ給はん事をおぼしめされしゆへなりと。しりう言する徒もありしとかや。またくさにはあらず。この時上杉景勝いまだ天誅に服せず。其上に上方の逆徒又蜂起し。當家は其兩間に在て。從事の諸將も多くは豐臣家恩顧の輩なれば。さしあたりいかになりゆくべきかと。深く御思念ありしさまの。御面色にもあらはれしなるべし。
かの戰に臨でおそれ。謀をこのむでなさむとありし聖語も。かゝるたぐひにや。たゞ暴虎馮河して。血氣にはやるとは。おなじ樣にあげつらふべきにあらず。これぞ末終に繼體守文の主に備はらせ給ふべき。御瑞相のあらはれしなるべし。
神祖豐臣關白と御和睦ありし後。天正十八年正月公いまだ長丸君と申て。十二にならせ給ふ御時。關白に見參せしめむため。駿河より京におもむかせたまふ。
關白待むかへられ。悅ばるゝ事かぎりなし。尼孝藏主して後閤にいざなはれ。政所みづから公の御くしをゆひ改め。御衣御袴も皆新調せしをきせ進らせ。關白みづからの名の一字を進らせて。秀忠君と稱せられ。公の御手を引て表に出られ。御供に侍りし井伊兵部少輔直政等をめし。大納言にはよき子をもたれしな。年の程よりはいとおとなしやかにて。さぞ本意におもはるべし。但田舍風をかへて。都ぶりに改め。返し參らするなり。大納言にもさぞ待遠に思はるべし。いそぎ供奉して歸國せよとて。直政はじめ御供の輩にも。さまざま引出物給ひ。幾程なく御歸國ありしとぞ。
家康公は子を多く持っていたが、その中で、信康君を初めとして、秀康公、忠吉公などは何れも父君の勇ましい性分を受け継がれ、武功も挙げられ雄々しい方々であったが、秀忠公に関しては、ご幼少の頃から仁孝恭謙の德を備えていた。
何事も父君の教えを畏まって守り、全てその考えにも違わず、勝手な振る舞いはしなかった。
このようであれば、仁柔であっただけかと思う者もいたが、家康公の跡を継ぎその志と任を受けるには、兄君達のように武勇だけを誇り、治世安民の徳がないのは如何なものか。
既に関ヶ原の戦では、上方蜂起について、下野の小山に報せがもたらされた際、秀康公は喜悦の表情を浮かべ、忠吉公は勇み逸る様子だったが、秀忠公は憂悶の様子を窺わせた。
世継ぎの地位を失いそうであることを考えていた為だと言う者もいたらしいが、そうではなく、この時、未だ上杉景勝は服しておらず、その上に上方の逆賊も蜂起し、徳川家はその狭間に有り、従軍している諸将も豊臣家恩顧の連中であったので、どのような成り行きになるかと深く考えていたのが、面にも現れていたのだろう。
かの戦に臨んで、怖れ、謀を好んでしようという言葉もこの種類の事だろう。 ただ暴虎馮河して血気に逸り、同様に論うべきではない。 これこそ、繼體守文の主に備わっているべき、目出度い相の現れだろう。
家康公が豊臣関白と和睦の後の、天正十八年正月、秀忠公が未だ長丸君といった十二歳の時、関白に見える為、駿河から京に赴いた。
関白は秀忠公を出迎えて非常に喜び、尼孝藏主に後閤に案内させ、政所自らが秀忠公の髪を結い改めた。 また衣、袴も全て新調したものを着替えさせ、関白自らの名を一字与えて、秀忠君と名付けた。 関白は秀忠公の手を取って表に出ると、供をしていた井伊兵部少輔直政等を召して、「大納言は良い子を持たれたな。年の割にはとても大人しい(大人っぽい?)。さぞや、自慢に思っていることだろう。田舎風を都風に改めてお返ししよう。大納言も待ち遠しく思っているだろう。急いで供をして帰国せよ」と言った。 直政始め、供の者達にも様々な引き出物を賜り、程なく帰国した。
派手派手キンキラキンの衣装をつい想像してしまう。。。それにしても必死に擁護してる感じが~
第1巻 第2章
おなじ關白。小田原の北條を討むとて相摸…
おなじ關白。小田原の北條を討むとて相摸國まで攻下り。湯本堂にて諸將をあつめ。酒宴ひらきて軍議ありしに。關白神祖に向はれ。秀忠をよびたまひて。この大軍を見せ給へとあれば。急に招かせ給ふ。この時大久保新十郞忠常十一?なるが。一人供奉してまいる。關白みづから着領の甲胄とりいだして公にきせ參らせ。わが武運にあやからせ給へとて。御背を再三なでられしとぞ。
関白が小田原の北条氏を討とうと相模国迄攻め下った際、湯本堂において、諸将を集め、酒宴を開き、軍議を開いた時の事。関白が家康公に向かい、「秀忠を呼んで、この大軍を見せよ」と急遽、秀忠を招かせた。この時、大久保新十郎忠常は十一歳だったが、一人、供奉して参った。関白が自ら用いていた甲冑を取り出して秀忠公に着せ、「我が武運にあやかれ」と再三、秀忠公の背中を撫でた。
……秀吉さんは本当に子供好きなのね~。それとも余程、秀忠君の事が気に入ったのか。。。
第1巻 第3章
文祿四年關白父子の間に事起りし時。公に…
文祿四年關白父子の間に事起りし時。公には京の邸におはしけるが。秀次をのが方に迎て質とし。一旦の害をまぬかれんとおもひ。つとめて使進らせ。朝餉參らすべければ。御出あれといひ送りけるを。大久保治部大輔忠隣その謀を察しければ。土井甚三郞利勝はじめ五六人御供せしめて。ひそかに伏見の館にわたらせ給ふ。利勝がすゝめにより竹田路にはかゝらで。大路をへて恙なく伏見におはしければ。大閤悅ばるゝ事ななめならず。實に新田殿の子なりとて稱賛せられしとぞ。こはさきに神祖京を出て。關東に下らせ給ひし時。公をめして。我東に下りし後。かならず太閤父子の間に事起るべし。さあらむにはおことは搆へて。太閤のかたへ參らせ給へと仰られしを。兼々よく守らせ給ひしゆへ。何の御恙もわたらせたまはず。しかのみならず。太閤もことに賴もしきかたに思ひとられ。實に新田殿の御子なりと稱美ありしとぞ。
文禄四年、関白父子の間に事件が起きた時のこと。 秀忠公は京の邸にいたが、秀次は、秀忠公を己の邸に迎えて人質として害を免れようと思ったようだ。 使いを寄越して、「朝餉を共にする為に御出あれ」と言ってきた。 大久保治部大輔忠隣はその謀を察し、土井甚三郞利勝を始めとして5、6人に供をさせて、密かに伏見の館に移動した。 利勝の勧めにより、竹田路でなく、大路を通って無事、伏見に至った。 太閤は非常に喜び、「実に新田殿の子だ」と称賛した。 これは、家康公が京を出、関東に下る時に、秀忠公を呼んで「儂が東に下った後には、必ず太閤父子の間に事が起こるだろう。その際には必ず太閤の方に付け」と言った。 かねがね、父君の言葉を良く守っている為、秀忠公は無事であった。 それだけでなく、太閤も秀忠公を殊に頼もしく思い、「実に新田殿の御子だ」と称賛したのだ。
新田殿って誰?新田義貞??(嘘系図?)
第1巻 第4章
關か原の役に公には諸軍を引ひ。木曾路を…
關か原の役に公には諸軍を引ひ。木曾路を打てのぼらせ給ひ。眞田が上田の城責にひまとらせ給ひし上。折ふし霖雨降つゞき。道の程にて關原の戰事終りぬと聞しめし。御憤りにたへず。御馬を早められ。近江草津にて神祖に行逢せ給ひぬ。然るに神祖御心地あしとて。三日が程御對面なし。上下みな色を失ひ。いかなる事にかとおそれあへり。榊原式部大輔康政はかねて公の御供にさゝれしが。このよし聞て。其夜ひそかに神祖の御方に參り。こたび中納言殿御けしき蒙らせ給ふは。上田の城責落し給はぬと。海道の戰にあはせ給はぬ故にや。さらむにはかしこけれ共。殿の御誤なきにしもあらず。先殿には今月(九月。)朔日江?を出立せ給ひ。十一日に尾州淸洲の城に入せられ。十五日には關原にて御合戰事終りぬ。御父子一所に御軍あらんとおぼしなば。など早く御出軍の期をば告知せ給はぬぞ。又海道よりも御使立られ。山道の御勢をも催させ給ふほどは。淸洲にしばし御滯座あつて。山道の勢を待せ給はんに。三成等何程の事をか仕出すべき。然るに思ひの外に御軍を急がれ。いまとなりてひとへに。中納言殿の御緩怠のごとくしなさせ給ふはいかにぞやと。はゞかる氣しきなくまうしければ。神祖さればこそ。八月晦日に使を馳て。明日首途すれば。山道の勢もいそぎ馳上れといひつるはと宣ふ。康政承り。さん候。その御使今月七日に小諸の御陣に參りつればこそ。中納言殿にも始めて聞召驚かせたまひ。御いそぎありしなり。されども名におふ木曾の難所なるに。大雨さへ降つゞき。一日が中に十五六里が程。御馬を進められしかば。人も馬も疲れはてぬと申。神祖聞しめし。などその使は遲かりつるとて。そのもの聞たゞされしに。霖雨にて人馬のかよひ?果しゆへ。遲參しぬと申す。康政かさねて申けるは。上田の城の事は。中納言殿には是非攻破て御通あらんと仰られしを。この御かたより附進らせられし古老のものどもが。あながちにとゞめ奉れば。御心ならず押の兵を殘されて。御道をいそぎのぼらせられぬ。抑御父子の御間なれば。常の御事にはいかなる御嚴譴もおはしませ。今中納言殿御年も壯に。行すゑ天下をも讓らせ給ふべき御身の。弓矢取ての道にをいて。父君の御心によしともおぼしめさずなど。世の人のあなづり申さんは。御子の恥辱のみならず。父の御身にもいかでその嘲はまぬかれ給ふべき。これほどの御遠慮のおはしまさぬ事こそうたてけれとて。?をながして申ければ。神祖も御心とけて。明る日伏見の御陣にて御父子御對面ありて。海道の軍の樣も。山道の事をも。かたみに御物語ありければ。上下みな安堵せしとぞ。其後に公御みづから御筆を染られ。康政がこたびのこゝろざし。我家のあらむかぎり。子々孫孫にいたるまで。忘れはつまじきよしの御書をなし下されしとぞ。
関ヶ原の役で、秀忠公は諸軍を率いて木曽路を上った。 真田の上田城攻めに手間取って日を費やし、長雨が降り続いた道程で、関ヶ原の戦が終わったとの知らせを受けた。 非常に動転して、馬を走らせ、近江草津で家康公に追いついた。 家康公は気分が悪いと言って、三日程、対面はなかった為、上の者も下の者も皆、色を失い、如何なる事かと怖れ合った。 榊原式部大輔康政は、かねてから秀忠公のお供をしていたが、これを聞いてその夜、密かに家康公の元へ参り、訴えた。 「中納言殿が今回、殿のご機嫌を損ねたのは、上田の城を落とさなかった事、東海道の戦に間に合わなかった為でしょうか。 憚りながら、殿の側にも間違いが無かったとは言えません。殿は9月1日江戸を出立され、11日には清洲城に入られ、15日に関ヶ原で合戦を終えられた。 父子で一緒にと思われたならば、何故早く出軍の期日を告知されなかったのか。 又、東海道からも使いを立て、中山道の軍勢を催促されるならば、清洲で暫し滞在されて、中山道の軍勢をお待ちになっても、三成などに何程の事が出来ましょうか。 然るに、思いの外、軍を急がれ、今になってから偏に中納言殿の怠慢のせいのようにされるのは如何なものでしょうか」 と憚る事なく言った。これに、家康公は 「8月31日に使いを出して、明日出立する故、中山道の軍勢も急ぎ馳せ上れと伝えた」と返したのを康政は承り。 「その使いは、今月7日に小諸の陣に到着し、中納言殿もその時初めて聞いて驚かれたのです。 非常に急がれたのですが、木曽は難路である上、大雨も降り続き、1日で15、6里程、馬を進める事が出来ただけで、人も馬も疲れ果ててしまいました」 と言った。 家康公はそれを聞き、「何故その使いは遅れたのか」と訊ねられた。 「長雨が続き、人馬が道を通れなくなり遅参したと言っておりました」と康政が重ねて言う。 「上田城については、中納言殿は攻め破って通ろうと仰せだったが、付き従う古老たちが止め、心ならずも兵を死なせ、中山道を急いで上られた。 父子の間の事であるから、厳しく叱責もされたいだろうが、中納言殿はお年も若く、行く末は天下を譲られる御方でしょう。 弓矢を取っての才では、父君の満足する程でなかったとしても、世人が侮って何か言えば、御子の恥辱となるだけでなく、父君である殿にもその誹りは免れないでしょう。 そうした先々への考えを持たぬのは愚かな事でしょう」と涙を流した。 そういう訳で、家康公も心を和らげ、怒りを収めた。 明くる日、伏見の陣で父子は対面し、東海道の軍、中山道の軍について語り合った為、上の者も下の者も皆安堵した。 その後、秀忠公が自ら筆を取り、「康政の今回の気遣い、我が家がある限り、子々孫々に至る迄、忘れない」と一筆したためて(康政に)与えたそうだ。
お墨付き~。残っているんでしょうか。それともこれも誰かさんが三河武士らしく「こんなモノ為にならん!」とか言って燃やしちゃったりして?
第1巻 第5章
關原の戰終てのち。神祖には草津より大坂…
關原の戰終てのち。神祖には草津より大坂城中へ御使をつかはされ。仰下されし旨あるにより。城中安堵せし所に。公には御馬を進められ。大坂に至らせたまひ。御使もて城中へ仰遣はされしは。こたび伏見にて討死せし鳥居元忠等が首ども。此地にとりよせ秀賴實?せしときゝぬ。さらばこの一亂全く秀賴が心中より出しといふ者なり。早く御人數を向らるべしとあれば。城中大にひしめきあひ。すは事こそ起れとのゝしる。秀賴が母堂淀殿。秀賴幼弱なれば。こたびの一亂元より思ひたつべきにあらず。首實?の事も毛利輝元はじめ。奉行人のせし所にて。秀賴があづかりしる所にあらざれば。この所察せられ。まげて御ゆるし蒙らんとあれば。公よりこのよし神祖に聞え上させたまひしとぞ。神祖もとよりさる神慮にましましければ。彌事なくしづまり。秀賴母子ともに安堵せられぬ。この事往復の間は。諸勢みな旗をしたてゝ一戰の支度せしが。かく仰出されし後。はじめて休息せしとぞ。
関ヶ原の戦が終わった後、家康公は草津から大坂城へ使いを出した。 城中が安堵している所へ、秀忠公が赴かれ、大坂へ至った。 家康公の使いとして大坂城中で、 「此度、伏見で討ち死にした鳥居元忠等の首を大坂に取り寄せ、秀頼公が首実検したと聞いた。 それならば、この乱は、秀頼の命によるものだという事であり、早々に軍勢を向かわせる」と言った。 大坂城中は大いに動揺し、「いっそ事が起きた方が良い」などと罵る者もいた。 秀頼の母堂である淀殿は、「秀頼は幼弱であり、此度の乱は元より、考えつく筈もない。 首実検の事も、毛利輝元を始めとする奉行達のした事で、秀頼が預かり知る所ではない。 こうした事情を察して、曲げてお許し頂きたい」と言った。 秀忠公から、淀殿の言葉は家康公に伝えられ、家康公も元々事を荒立てる気は無かった為、事無く事態は静まった。 秀頼母子共に大いに安堵した。 こうした往復の間は、諸将は皆軍旗を揚げ、一戦の支度をしていたが、この仰せの後に初めて休息を取ったとの事である。
何だろう。秀忠君がはっきり言ったから騒ぎが収まったという話、なのかな。(単に使いっ端ですよね~)
第1巻 第6章
加賀井彌八郞が三州池鯉鮒にて。水野和泉…
加賀井彌八郞が三州池鯉鮒にて。水野和泉守忠重を討しを。堀尾帶刀吉晴が所爲なりといふこと。下野の小山に告來り。神祖聞しめし驚かれ。吉晴が子信濃守忠氏は公の御陣に在れば。いそぎ宇都宮へこのよし告知らせらる。公聞しめし。吉晴父子當家に叛き奉るべきものにあらず。たとへ承る事のごとくならんにも。信濃守に於ては二心抱くべきものならねば。めしいましむべきにあらずと。屹と仰進らせられぬ。然るにかさねて彼地より。彌八郞が忠重を討しかば。吉晴即座に彌八郞を討とり。其身も深手負し事つばらに注進ありしかば。神祖聞せられ。公のよく人の心しろしめしける事を。かへすべす感じ給ひ。衆人も皆御德をかしこみあへりしとぞ。
加賀井彌八郞が三州池鯉鮒で水野和泉守忠重を討ったが、これは堀尾帶刀吉晴の命令だと、下野の小山に報せがあった。 家康公はそれを聞いて驚き、吉晴の子である信濃守忠が秀忠公の陣に居る為、急ぎ、宇都宮にも報せた。 秀忠公は「吉晴父子は当家に叛くような者達ではない。例えそうした事があったとしても、信濃守は二心を抱く者ではないので、捕縛したりすべきではない」 と言い、父君の勧めには従わなかった。 その後、現地より、彌八郞が忠重を討った際、即座に吉晴が彌八郞を討ち取り、その際に深傷を負ったとの報せがあった。 家康公はそれを聞き、秀忠公が人の心を良く知っている事に返す返す感じ入った。 周囲の者達も皆、秀忠公の徳を敬った。
良い話?秀忠君を持ち上げようとして、家康パパが慌てん坊さんになっているような~
第1巻 第7章
慶長五年關原の軍散てのち。神祖いかなる…
慶長五年關原の軍散てのち。神祖いかなる思召にやありけん。大久保治部大輔忠隣。本多佐渡守正信。井伊兵部少輔直政。本多中務大輔忠勝。平岩主計頭親吉をめし。我今三人の男子をもてり。いづれか我家國を讓るべき。汝等が思ふ所をつゝまず聞え上よとの仰なり。正信は三河守殿こそ武勇といひ智畧といひ。あつばれすぐれ給ひ。殊更御長子なれば。天下の御ゆづりはうたがひなく。この殿にまさるはあらじといふ。直政。忠勝。親吉がいふ所もまちまちにして定らず。ひとり忠隣。軍陣の間には武勇をもて主とすれども。天下を平治し給はんには。文德にあらでは。大業を保ち給はん事かたし。三人の御子みな龍種におはしませば。御武勇の程いづれをまさりいづれを劣れりとさだめ奉るべきにあらず。ひとり中納言殿はもとより。謙遜にましまして御孝心もあつく。文德智勇かね備へ給ひ。殊には久しく正嫡に備はり給ひ。御官途も又御兄弟にこえさせ給へり。天意人望の歸する所。いかでこの君をすてさせ給はんと申ければ。神祖何と仰らるゝ旨もなかりしが。一二日ありてさきの人々めしいで。相摸が申所我意にかなへば。家督は永くさだまりぬと仰ければ。何れも奉賀してまかでしとぞ。これは公久しく儲位におはしませば。神祖元より廢立の念おはしますにはあらざれども。天下新定の時に當り。人心の向背を試み給ひ。國本をしていよいよかたからしめんとおぼしめして。かゝる事仰出されしなるべし。
慶長五年、関ヶ原の戦の軍が解散した後。 家康公がどのようなお考えであったのか、大久保治部大輔忠隣、本多佐渡守正信、井伊兵部少輔直政、本多中務大輔忠勝、平岩主計頭親吉を呼んだ。 「儂は今、三人の男児がある。誰に家と国を譲るべきか、そなた達の存念を申せ」と言った。 正信は「三河守殿(=秀康公)こそ武勇といい智略といい、天晴れにも優れているだけでなく、長子であるのだから、天下を譲られるのも疑いなく、この人以上に勝るひとはないでしょう」 と言った。直政、忠勝、親吉が言うこともまちまちではっきりしなかった。 一人、忠隣だけが、「戦の間は武勇が主となるだろうが、天下を平治の後は、文徳がなくては大業を保つ事は難しいでしょう。 中納言殿は元より、謙遜であるだけでなく孝心もあつく、文德智勇を兼ね備えておられる。更に、久しく正嫡であられた。 官位についてもご兄弟より上である。天意、人望も帰する所であるのに、どうしてこの御方を捨てようとなさるのか」 と責めた。 家康公はその時には何も言わなかったが、日を置いた後、先日の者達を再度召し出し、 「相摸の言う事は我が意に適ったので、家督を明確に定めた」と家康公は言った。 皆、賀して祝った。 これは秀忠公が長く世嗣の位にあり、家康公は元より、廃嫡するつもりは無かったが、天下が新しく定まった時に当たり、国許をいよいよ固めようと思って人心の向背を試したのだった。 それでこのような事を仰ったのだった。
う~ん、一生懸命擁護してます!って感じ。でも家康パパだったらやりそうな事かもしれないし。。。
第1巻 第8章
神祖あるとき本多佐渡守正信をめして。秀…
神祖あるとき本多佐渡守正信をめして。秀忠はあまり律義すぎたり。人はりちぎのみにてはならぬものなりと仰られけるを。正信承りこのよし聞えあげ。殿にも折々はうそをも仰らるゝがよしと申ければ。公わらはせられ。父君の御空言はいくらも買ふものがあり。我等は何事も仕出せし事なければ。うそつきてもかふものあるまじと仰られしとぞ。
家康公がある時、本多佐渡守正信を呼んで、「秀忠はあまりに律儀過ぎる。人は律儀だけではやっていけないものだ」と言った。 正信はこの事を秀忠公にも伝え、「殿にも折々は嘘などを仰せになった方が良いでしょう」と言うと、秀忠公は笑って、 「父君の嘘は幾らでも買う者がいる。我等は何事も為していないのだから、嘘を吐いても買う者などいない」と言った。
律儀と「嘘付かない」とは違うと思う。ま、佐渡さんは例として言ったんだろうけど、それを秀忠君が更にストレートに返してる所が何とも言えない。
第1巻 第9章
いつのころにや。神祖の御けしき伺はせ給…
いつのころにや。神祖の御けしき伺はせ給はんため駿城にならせられ。二月ばかり御滯留ありし頃。神祖うちうち阿茶の局をめされ。將軍には年若ければ。こゝらの旅ねさぞつれづれならん。こよひ花を使とし菓子持せ。裏口よりしのびやかにやるべし。つれづれまぎるゝかたもあらん。されどわが申たるなどいふべからず。汝心得てよきに計らへと仰けり。花といへるは。其比とし十八ばかり。すぐれて美麗のきこえあるを。局のはからひにて殊によそひたてゝ。はしたものに菓子もたせ進らせけり。こよひかゝる事ありと。局よりも御方に通じ置ければ。公には暮ぬ程より御上下めし。端座して待せ給ふ。夜に入て花御庭の木?を扣きければ。公御みづから起たまひてその?を明給ひ。花を導て上座にすへられ。持たる菓子をとらせられ。是は定めて大御所より下されしならんとて。いたゞかせられ。扨御用すみたれば。汝はもはや歸るべしと仰ありて。また先に立せられ?口まで送らせ給ひければ。花は兼て局の教へしおもむきと違ひ。いかにも公の嚴恪におはしませば何といひ出ん詞もなく。恥らひつゝ還りきて。このよし神祖に申あげしかば。將軍には例の律義人なり。我階子をかけても及び難しと仰られしとぞ。
何時の頃か、家康公の様子を見に、秀忠公が駿河に来て、二月ばかり滞在していた際の事。 家康公が内々に、阿茶局を呼び、「将軍は年若く、このような所ではさぞや退屈だろう。今宵、花を使いにして菓子を持たせ、裏口から忍ばせよ。退屈も紛れるだろう。 だが儂が言った事などと言うなよ。そなたが心得て良きに計らえ」 と言った。 花というのは、年の頃は十八、優れて美しく麗しい者だった。 局の計らいで、花は特に装い、菓子を端下者に持たせ、今宵秀忠公の元へ赴くようにと、伝えた。 局から秀忠公にも報せた為、秀忠公は夕暮れより裃を身につけ、端座して、使者を待っていた。 夜になって、花が庭の木戸を叩くと、秀忠公が自ら立ち上がって戸を開けた。 花を上座に据え、持って来た菓子を大御所がわざわざ下さったものとして重々しく受け取り、頂いた。 「これで御用は済んだのだから、汝は最早帰れ」と秀忠公は言い、先に立って、花を戸口迄送った。 花は、局から聞いていた様子と異なり、如何にも秀忠公が厳格であるのに何も言えず、恥じ入りつつ帰った。 この事を家康公に伝えると、「将軍は律儀なひとだ。儂などは到底及ばない」と言った。
余計なお世話?をして、慇懃にしっぺ返された感、ですね。単に「花」が好みじゃなかっただけかもしれないけど。
第1巻 第10章
大坂冬の役に天滿より備前島邊御巡視あり…
大坂冬の役に天滿より備前島邊御巡視ありて。有馬玄蕃頭豐氏が陣の井樓にのぼりたまふ。城兵馬印を見知り。火失射かけ大筒打かけしかば。近臣等もつたひなし。とくとく下させ給へと諫め申けれども。さらに聞召いれ給はざる所へ。水野日向守勝成馳參り。この在樣を見。斥候は一口を見切り。巡視は惣躰をつもり候をもて要とする事なり。一所に久しくおはしますべきにあらず。鴫野の方へも御出ありて然るべしと申上る。尤なりと仰て鴫野のかたへわたらせ給ふ。その時上杉の陣には。たゞ今この所へならせ給ふと聞とひとしく。直江山城守兼續下知し。早々城へむかつて鐵炮を打かけしかば。城中是に先をとられ。御通行の時は鐵炮を放つ事もなし。上杉の陣法さすがなりと感じたまふ。この日大御所は今福のかたへめぐらせ給ふ。本多佐渡守正信參り。若殿も參らせ給ふべきにやと伺ひしに。大御所我身は幼弱より干戈の間に人となりしかば。敵に對し營中に安座してある事能はず。ともかくも大將軍たらん人の。心のまゝたるべしと仰ければ。正信大に恐怖し急使を立てかくと聞え上る。公はこの時?に岡山に赴かせ給ひしが。かくと聞しめしいそぎ立かへらせ給ひ。やがて御跡より今福の方へ御巡視ありしとぞ。
大坂冬の役で、天滿から備前島を秀忠公は巡視した。 その時、有馬玄蕃頭豐氏の陣の井樓に上った。 (大坂城の)城兵が馬印を見、火失を射かけ大筒を撃ちかけて来たのに、近臣等が 「早く降りて下さい」と諫めたが、全く聞き入れない所へ、水野日向守勝成が馳せ参じ、この有様を見て、 「斥候は一口を見切り、巡視は総身を積むのを以て要とする事です。(?良く分からない。さっと見てさっと帰れって事??)一カ所に長く留まるべきではありません。鴫野の方へもいらして下さい」と言上した。 尤もだと応えて、鴫野の方へ秀忠公は渡った。 その時、上杉の陣には、もうすぐ将軍が巡視に来るとの報せを受け、直江山城守兼續が下知し、早々に城に向かって鉄砲を撃ちかけた。 大坂城中はこれに気を取られて、将軍の通行時には鉄砲を放つ事も無かった。 上杉の戦術は流石だと秀忠公は感じた。 この日、大御所は今福の方を巡っていた。 敵に対し、陣営の中で安座している事が出来ないのだろう、とにかく将軍ともあろう人なのだから、心のまま振る舞うのが良かろうと言った。 正信は大いに恐怖して、急使を立てて報せた。 秀忠公はこの時、既に岡山に赴いていたが、このように聞いて急いで戻った。 その後、今福の方へ巡視された。
なんか部下の皆さんの言う事を聞かずにあちこち歩き廻って騒動(敵からの攻撃?)を引き起こす秀忠君という図が思い浮かぶ。……総大将?大御所様が認めているようでさり気なく諫めている、のかな?(良く分からない~)
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