藤袴5
2017年5月10日7:00 公開 3
宴は最早終盤に差し掛かったらしいと利勝は判断した。
少なくとも、奥殿の女中衆は若君と姫君のお披露目ーなどとかまびすしく囀っているのを耳にしたーが此度の祝宴の目玉であり、それが無事終了した以上、随分とゆったりとした心持ちになっているのだろう。
元々、表務めで奥殿へなど滅多に立ち入らぬ男衆と異なり、禁域に踏み込んでいるといった緊張感も、また今この時に御台所主催かつ将軍家を寿ぐ趣旨で開かれる宴の意義への理解なども持っていないに違いない。
いや、持っているとしても、女という生き物は同時に捻れて妙な考えを持っていたりーあるいは考え自体持っていなかったりするのだ、などと考えた。
(女など。全く理不尽なモノであるからな)
正直、彼自身は既にその後の演し物には興味が無い。
元々同僚であり年上の友人である雅楽頭に此度は態々吉原から太夫を呼んだと聞いてはいるものの、だから何だという気持ちの方が強い。
はっきり言って年若の者達がそわそわと落ち着き無く舞台袖を見遣ったり、何やら浮ついた風に軽口を叩きだしたのが不快でならなかった。
無論皆、大事な主家の御子様方の舞と演奏が無事終わった為、気が緩んでいるのであろうが。
だからといって常在戦場の心得は未だ必須な状況であり情勢でもあった。
(全て御台所様のご慈悲、と理解しておるであろうな、あの者共は)
経験が浅く主家への奉公も短い者達の中には、将軍家御正室たる御方様の素性にもの申す輩が多い。
御方様のことを知らぬ連中の横言だと理解はしていても、時に我慢がならぬことだってあったりする。
ーありはするのだが、己などが口出ししては逆に御方様やお子様方のお立場を悪くしてしまうのではないかという懸念故に特に行動を起こしたことはない。
僅かでも微かな霧程度のものであっても、主君の御正室に傷や曇りなどあってはならないのだと固く信じ、決めている。
(御台所様は特別な御方なのだ。あの方以上に美しい女子などこの世にいる筈がない)
そんな風に思いつつ、利勝は観客達がふいに静まったのにようやく残りの演し物が始まったのかと舞台に目線と関心を移し。
一瞬目を剥くと共にがくりと顎を落とした。
幸いなことに醜態を晒したのは一瞬のことであるし、又周囲の者皆、利勝と同じく舞台に釘付けであった為、誰にも見られはしなかったようだが。
舞台では、華やかで艶やかな衣装を身に纏った女が一人、楽の音に合わせて舞っている。
正直顔立ちなどは距離もありはっきり見て取れはしないし、第一怖ろしい程に白塗りされた顔に紅だけがキツく目立つという、近めで見ればおそらく不気味一辺倒だとは理性で判断するものの。
(……何と。斯程に艶めかしい女子がこの世に存在するとは)
特に何も考えず脳裏に浮かんだその感慨に、だが利勝はすぐに疑問と反問を覚えた。
(いや。顔はアレだぞ。……それを何故艶やかなどと感じるのだ、それがしは?……少々疲れて気が弱っているのか)
気になって周囲を見回してみると、同輩先輩後輩等も皆一様に惚けた貌を晒して舞台上のただ一点、徐々に身振り手振り激しくおそらく踊りも佳境に入っているのであろう舞妓に見入っている。
いや、魅入られていると言うべきか。
(……ふむ。これが、吉原の太夫というものなのか。……なかなかに凄まじい)
もともと芸事には全くという程関心を持っていなかった利勝である。
素直に感心すると共に、これはあるいは今後の御政道にも影響する要素があるのかもしれない、と真剣に考え出す。
この僅かな時間で同席する者達の注意ー『心』とは表現したくないーを奪うなど並大抵ではないし、如何様なものであれ力は力であるのだから、将軍家の為に利用出来ぬか考えるのが、柳営幕閣に連なる者の務めだ。
ある種邪な企み事や謀を頭の中で捏ねくり回している間に舞は終わり、盛大な拍手を浴びて芸妓は舞台を降りた。
(いっそ公儀隠密にも、あのような舞を習得させるべきでは)
そんな事を考えている内に、宴自体がお開きとなったらしい。
特に残念とも遺憾とも思わず感じず、利勝は同輩等と共に、表御殿へ戻るべく席を立つ。
主君が未だ少年といっても良い年頃に祝言を挙げた御正室への憧れは未だ健在であるし、御正室の気配なりお声なり聞ければという望みは持っていたものの、どうしてもという訳ではない。
徳川家譜代の臣である利勝等には、全てにおいて優先すべき存在及び摂理があるのだ、などと寧ろ誇らしく鼻息荒く思ったりしたのだが。
「旦那様、この後、皆様にお茶を差し上げたく思いまする。……宜しいでしょう?」
御簾で囲われた中、好奇な麗しい女人が居ます場所から、まさしく小鳥のように軽やかでぱっと花咲くように華やかな声が明るく響くのにはっと息を呑んだ。
利勝だけでなく、周囲の同輩等もーある者は中腰の姿勢で固まってーそれこそ戦々恐々といった心地で主君の沙汰を待つ。
何と言っても彼等の主君は政においては稀に見る名君ではあるものの。
夫として男としてはどうなのか、などと皆口には出さぬ迄も疑いの心を持っていたりするのだ。
(無論、上様は、御台所様を閉じ込めておられる訳ではない。……あくまでも御台所様をお守りしようとしておられるだけ……の、筈だ)
「ね、宜しいでしょう?ね、旦那様。お願い。お願い、ね、旦那様ったら」
利勝等が固唾を呑んで成り行きを見守っている間に、どうやら御簾の内では、御台所がかなり強引かつ強硬に攻めておられるらしいとは窺えた。
「ね、ね、旦那様、お願い。旦那様も是非にご一緒にして下さいませ。……柳営の皆様方がご一緒なら、少しくらい、旦那様だって奥でお過ごしになられたって宜しいでしょ?ね?」
このように愛らしく熱心に口説かれたら、誰だって肯わずにはいられないだろうなどとふやけた心地で利勝ー及び周囲の者皆ーが思った通り。
主君の答えは聞こえなかったものの、程なく御台所が少女のように歓声を上げるのが聞こえた。
「嬉しい!旦那様!許して下さるって思ってましたわ!……本当に、嬉しい……」
「……」
「今日はとても良い日ですわね。子達も皆、とても頑張っておりましたし、皆の舞や演奏も素晴らしゅうございました。……これも偏に、皆、貴男様に少しでも楽しんで頂きたいと願ってのことだったのですわ。貴男様のご尽力を、皆理解しているのですね。……本当に何て素晴らしいこと」
相変わらず軽やかで優しいお声だ、と利勝は感じ入ると共に、胸の奥から込み上げてくる熱いモノがある。
御正室のお気持ちを考えればとてもではないが、脳天気に我が世の春などと浮かれてはいられない。
(御方様、いや、御台所様のお悲しみ、お嘆きは如何程のことか)
東国特有の強い風が吹き、何処からか紅色の花びらが舞い飛んでいく。
皆がどんな貌をしているのかー御簾の奥の主君や御正室の表情もー利勝には見えなかったし、見ようともしなかったが。
思いは一つ。
緩やかに和やかな太平を言祝ぐ。
二度と血で血を洗うような悲劇が起きぬよう、願いながら。
ー起こしてはならぬとの誓いと共に。
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