藤袴4
2017年5月7日7:00 公開 1
最早すり切れそうな程に高まった緊張感は、その笛の音と共に頂点に達した、ような気がした。
少なくとも彼、忠俊はー少なくともその心中及び頭中はー、近年最高潮の興奮状態である。
通常ならば、管弦の宴やら舞妓の舞台など軟弱惰弱、余程の権門名門ー無論主家である将軍家も含むーならいざ知らず、質実剛健を以て旨とする三河武士には無用と一顧だにしない、というのが彼の流儀なのだが、此度ばかりは勝手が違う。
(何と言っても若君の晴れ舞台なのだからな!)
剣術試合や弓比べでないのは少々ー大いにー残念ではあるが、何よりも先ず、己が仕える若君の披露こそが重要で重大事なのだと思う。
主家である徳川将軍家の天下は名実共に決した。
最早この日の本において、主家に逆らう者など存在しない。
公家どころか恐れ多くも主上ですらも、徳川家の威光の下、その意を得ることなく物事を定める、どころか、将軍家が大いに天皇家及び公家や朝廷を支援していることを鑑みれば、その体裁を整えて生きていくことすら難しい世となった。
その天下一の御家を、何れは忠俊がお仕えする若君が承継し、若君こそが天下の君となられるのだと思うと総身に震えが走る。
無論当代の将軍家である主君へも絶対の忠義を誓っている忠俊であるが、その忠義故に若君の御為ならば火の中水の中、天下人に相応しく若君を育て上げることこそ己の本懐と迄、思い極まっていたりする。
舞台上、牛若丸風の装束を身につけた若君が堂々と笛を奏している姿に、忠俊は自然、目を細めつつも拳を固める。
若君が赤子の頃より傅役を仰せつかっている身としては、あくまでも若君には将軍家の世嗣らしく男らしく武士らしく育って欲しいと熱望しているものの、生来病弱で未だ体つきもあくまでもほっそりと儚げな感すらする若君が、滅多に無く大勢の注目を浴びて逆上せて倒れはしないかと心配であるし。
普段は特定の乳母や侍女等にのみ囲まれて過ごしている若君に対して、若君の事を良く知らぬ奥仕えの者達や普段は奥殿へ立ち入ることを許されていない者達が詮索がましくも不躾な好奇の目を向けているのが腹立たしかった。
口喧しく過保護な乳母が若君に被せた被衣で母君譲りの繊細な容貌が隠されているのに何となしに安堵も覚えている。
件の乳母は良く頭の回る女だが気も早いらしく、そろそろ若君のお相手を探さねばとか、若君のお気に召すような女子がいれば是非に御子を、などと言っているのが、忠俊にとっては非常に不快で、昨今一層乳母への嫌悪の念も強くなっていた。
無論、乳母の気持ちや考えも分からぬではない。
乳母も又、病身の若君を赤子の頃より文字通り身体を張って守り育ててきた者なのだ。
大事な若君に是非に御家を、つまりは天下の将軍職を継いで欲しいという想いは強く凝り固まっているだろう。
(だが若君のお気持ちを無視するような真似をさせる訳にはいかぬ)
そんな風に忠俊は思ったものの。
若君の笛の音に合わせ、舞台に現れた一組の少年少女の姿に思わず眉を寄せる。
胡蝶を装った衣と面を付けて軽やかに舞い踊っているのは、若君の弟妹である国松君と和姫だ。
年子であり、母君の傍近くに置かれて傅育を受けている御弟妹はとても仲が良く、舞技よりもその息の合った様子、無邪気で稚い様に舞台を見守る者達が一様に感嘆の溜息などを吐くのがーその感慨やら気持ちやらも忠俊には充分以上に理解出来たから尚一層ー不愉快だった。
無論、御弟妹は若君のことも兄君として慕っているし、若君も御弟妹を慈しんでいる。
だが末姫である和姫を、主君はこれはそのお心を全く隠しもせずに寵愛というより溺愛し大切にしておられるし、国松君のことも何かと心がけ気に懸け、相手をしておられるとは、忠俊だけでなく奥殿に仕える者、もしくは御目見得以上の者達は皆知っている事実だった。
口さがない者達が陰口を叩くように、若君だけが父君母君から遠ざけられている訳ではないし、疎まれたり憎まれたりはしていないと分かっているが、それでも己が傅育の任を以て仕えている若君が蔑ろにされている、などと言われて面白い筈もない。
ましてやすぐ下のー二歳年下のー国松君こそ世継ぎの君となられるに違いない、などという噂には全く我慢がならないのだが。
ふいに一陣の風が吹き。
聞き覚えのある高雅な香が強く匂い立った、ような気がした。
(御方様、だ)
反射的に上った想いは、忠俊にとっても無意識の、あるいは本能的なものなのかもしれない。
己では意識せず、彼は背後に視線を送り、己の推測通り、先程より上げられた御簾越しに、その一心な眼差しや恍惚とした表情など迄見て取れる程近くに、御台所が端近にほぼ東屋から身を乗り出しておられる体勢なのを確認した。
「御台。転げ落ちぬように気をつけよ」
常と変わらず冷ややかな主君の窘めに、ぴくりと一瞬身を震わせたものの、御台所は舞台上の御子様方に当てた目線は逸らさず、ぷっくりと頬を膨らませて文句を言った。
「大丈夫ですわ。私、童ではありませんもの!」
「……」
「それよりも、貴男様、もっとじっくりとご覧下さいませ!子達があのように見事に舞っておりまする。竹千代も、何て達者なのでしょう。素晴らしい才ですわ!……まあ、あの子達には天賦の才があるに違いありませぬ。弁財天のご加護を受けているのやも」
「……」
「きっとそうですわ!私の亡き父は、弁財天を信奉していたそうですから、あるいは父上の血かも。いえ、それとも伯父上様でしょうか?伯父上様も舞や音曲を大層お好みでしたもの」
「……そうかもしれぬな」
素早く忠俊は舞台へと目線と意識の全てを戻した。
主君がご自分の御正室の姿や顔を家中の者とはいえ他者には見せたがらないことは忠俊も重々承知しているのだ。
そして主君の気配り、というより慎重な配慮は非常に的確なのだとも思う。
(御方様、いや御台所様……相も変わらずお美しい)
将軍家の世継ぎ争いといった幾分きな臭くも物騒な物思いなど完全に忘れ去り、蕩けそうな心地のまま、忠俊は先程垣間見た世にも麗しい佳人の姿や貌を脳内で再生する。
最早舞台の御子様方の姿は視界に入っていても意識には全く入って来ない。
(まるで天女のような……いや、御台所様こそ、弁財天がこの現世に降臨された、移し身ではないのか?……誠にあのように麗しく可憐な女人は、他にはいない)
「あんっっもう!旦那様ったら邪魔しないで下さいませ。……子達があのように頑張って、貴男様をお慰めしようと努めておりますのに、こんな……」
何やら背後で主君夫妻が争っているらしいのは忠俊の耳には入らなかった。
それ程に、久方振りに目にすることが叶った御台所の姿は、彼にとって衝撃的だったのだ。
何時の間にか、大事な若君が奏でる笛の音が途絶え、更には盛大な拍手に包まれて舞台から将軍家の御子様方が下がる際に漸く忠俊は我に返り、慌てて忠臣に相応しく自身も又掌が痛む程に強く大きな音を立て続けた。
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