藤袴3
2017年5月3日7:00 公開 1
雅楽頭、という大御所直々に賜った誉れ高き官職で呼ばれることに少々忸怩たるものを感じている忠世ではあるが、本日ばかりはその誉に相応しく己の務めを全うすべしとの意気込み高く、式典に臨んでいた。
主君の御正室やその意を受けた侍女らは軽く「お祝い」などと表現していたが、忠義第一、御家第一の忠世にしてみれば、歴史に名が残るような威高く華々しき宴とせねばならない。
徳川家の治世ーより精確に表現するならば、若き頃より見守り支えてきた主君の天下ーを大いに言祝ぎ、喧伝するという、己にしか為し得ない大事、という想い、使命感があったりする。
彼から見れば、年下の主君は余りにも生真面目で四角四面な迄に謹厳で実直なーそして、自身に対しても冷徹であり、これは少々行き過ぎではないかと忠世などは思う程に自己評価が低い謙虚な人柄で、更に主君の周囲を固める側近等も忠義一辺倒、唯只管に幕府の運営と幕府が庇護する民草の統制のことしか考えていない、謂わば、朴念仁ばかりである。
ーなどと考えている忠世自身も他者からは同類と見做されているし、忠世もある程度は自覚しているのだが、それでも忠世にはお役目がある。
つまり。
此度のように、宴や祝いの席などがあれば、それを取り仕切り、必ずや成功させて御家を盛り立てていくのが、彼の務めなのだ。
忠世は配下の者達が手順指図通り隙なく動いているのを確認した後、油断無く素早く上座の様子及び気配を窺う。
本日の宴は、奥殿の主である御正室のたっての仰せに従い、半ば無礼講という形は取っているが、常に警戒心と猜疑心を失わぬ主君の意に沿うように、警備の者達は幾重にも宴の会場となっている東屋前の広場を囲んでいる。
それだけでなく、御正室が座す東屋には、壁こそ増設されていないものの、確りと御簾が半ば下げられている。
主君としては床迄確りと覆い尽くしたかったのだろうが、これはおそらく御正室が反対されたのだろう。
摂関家扱いのーそして長年将軍家・御家にとっては目の上の瘤状態である仮想『敵』であったー豊家から嫁して来られた御正室は、その身分や氏素性とは真逆に気さくで飾り気無い女性なのだ。
そしてそういった御正室の気性故に、主君は一層、大切な女君ー家同士の略として迎えた政治・政略的に重要な存在あるいは祝言を挙げてから既に二十年近い歳月を経ている糟糠の妻、というだけでなく未だ一途に寵愛し続けている女人ーを守りたい、誰の目にも触れさせたくないなどという衝動を掻き立てられるのだろう。
主君が幼い頃より身近で使えている側近である忠世等には、簡単に推測可能な心情だ。
(上様は常に慎重で思慮深く賢明な御方だ)
そんな風に彼等は主君の猜疑心の強さ、警戒心の甚だしさを片付けている。
徳川家の当主ならば、如何なる出来事をも予測出来ねばならないし、不測の大事が起きたとしても対処出来ねばならぬ。
そんな風に、徳川家もとい松平家譜代の臣達は信じている。
主君は徳川家本城である江城奥殿においても油断はしないし、襲撃者や不届き者があってはならぬと御正室を保護しておられるだけ、だ。
臣である忠世等の御方様への純粋な敬慕の念を疑ったりつまらぬ悋気やら独占欲故に御正室の顔や姿を他者に見せぬよう隠しておられる訳ではない。
忠世等、側近とはいえ臣下等の席からは、無論、高貴な女人の姿など窺う事は出来ない。
華やかで艶やかな衣の色目が僅かに御簾越しに透けて見えるだけだが、それだけで充分だ、と忠世は考えた。
上席からは充分庭に設営された舞台は視界に入るであろうし、麗しく高貴な女人の目にはむさ苦しい男共など入らぬ方が良い。
ましてや、少々見目は良いかも知れぬが氏素性は確かとは言えぬーといいつつ、厳しく調べ吟味を尽くした心算だー楽人や芸人の様子などもお目に掛けぬ方が良い。
舞台上で繰り広げられる芸や技のみを鑑賞頂ければ良い、などと考え、流石にこれは彼等武家の者達の片手技などとは異なり格段に艶やかかつ雅やかに洗練された楽の音にも訳知り顔で耳を傾けた。
雅楽頭などという職を授けられてはいるもののだからといって音曲に詳しい訳でも秀でている訳でもないのだ。
無論、楽人や舞妓の選定には、その道に詳しい者に任せている。
(何でも今巷で評判の芸妓らしいしの。……吉原の、というのが些か剣呑ではあるが)
しかし芸と色は、太古の昔より切っても切れぬモノだ、などと穿ったことも考えた。
忠世は厳つい貌と目線を崩さず周囲を睥睨しーといっても別段他意がある訳ではない。あくまでも平常心、つまり本人としては常々の忠義心故の気配りの積もりだー、舞台近くから元々の己の席へと戻った。主君も既に、東屋の中へと座を移している。
忠世の席は、その家柄ー何と言っても松平家譜代の中でも名門中の名門、家老職を代々務めた家門であるーと地位に相応しく、上席であり、主君の座所にも近い。
知己や親族も多い場所は落ち着くものだが、上座から微かに漂う高雅な香は寧ろ容易く彼のような男の心を騒がせ惑わせてくれる。
(……お姿が見えぬならばお声だけでも)
そんな風に無意識無心に覚えた彼の願いに応えた訳では無かろうが。
細やかな衣擦れの音と共にーどうやら御正室は御夫君の方へ向き直るか寄りかかるか、されたのだろうー聞き覚えのある澄んだ清らかな声がした。
「ね、旦那様。よくよくご覧になって下さいませ。……皆、旦那様をお慰めし、楽しんで頂こうと努めているのですもの」
「……」
主君の肯へは聞こえなかったものの。
「っもう!旦那様ったら!……こんな所で、およしになって……」
おそらくご本人的には潜めたつもりなのだろうがその声質故に結構通りが良かったりする御正室が慌てて諫める様子から、どうやら相変わらず仲睦まじく過ごしておられるのだと正しく推測しつつ、忠世は嘆息を堪えた。
何事も真面目な謹厳居士などと主君の事を表している者は多いし、また忠世自身も大抵の事柄ではそのように思っているが。
(上様は、御台所様の事では少々、羽目を外されるきらいがある)
尤も本気なのかどうかは忠世にも分からない。
素直で初心な御正室を単にからかっておられるだけ、なのかもしれないとも思うのだ。
(御台所様はまことに可憐で愛らしい女人であらせられるから)
無論、既に「愛らしい」などと表現出来る年齢ではないし、御正室は主君の御子を七人も出産されている。
その花のような美貌ーと忠世は江戸へ御正室が下られた当初、何回かお見かけしたことがある姿を恍惚と思い浮かべたーも、年齢なりに衰えているではあろうが、それは大した問題ではない。
御夫君を支え御子様方を慈しみ大切にしておられるその人柄、一途で健気なお心こそが、忠世及び同僚等の敬慕の気持ちを掻き立て、募らせるのだ。
それは、自身篤実な主君も同様だろうと忠世等は考えている。
主君が御正室以外に側室やら妾やらを置こうとしないのは、つまりはそうした御正室への慮りであり、巷間で何やら面白おかしく言われているような(と聞いている)御正室の出自や悋気を怖れて、などでは断じて無い。
(現に御台所様は、若君方のことも分け隔て無く慈しんでおられる)
そんな風に思った時に。
幾分尖った神経質の感がある笛の音が鋭く響いた。
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