藤袴
2015年5月6日9:01 公開 1
「もうすぐ、だわ」
寝殿の女主人である将軍家御台所はその朝、暦を確認した。
ここ最近の習慣となってしまっている彼女の行動に、侍女達も既に慣れていて特に反応は示さない。
「ああ、どうしましょう。困ったわ。……本当にどうしたら良いのか」
本人としては独り言の心算なのだろうが、周囲の者達の耳にはくっきりはっきり聞き取れる。
元々その生まれ育ち故にか、鷹揚な性格であるし、またその華奢で小柄な身に相応しく声質も高く聞き取りやすいのだ。
「もっと練習しなくては間に合わないわね。……於福にも手伝ってもらわねば」
決意を大いに示して御台所はふっくらと愛らしい紅唇を引き締めた。
といいつつ、どうしても黒目がちの大きな瞳のせいで、どんな表情を浮かべていても厳格さなどとは程遠い印象を他者に与える女人である。
実際軽やかで楽しげとしか言い様が無い足取りでそのまま寝殿から出て行こうとするのを素早く数人の侍女が押し留めー何と言っても寝殿の女主人は、この御台所寝殿だけでなく奥殿の主、更に言えば、城主であり国主、この日の本の武門の頭領である徳川二代征夷大将軍の正室でもある尊くも権勢甚だしい方、なのだ。とはいえ、仕える者達もついつい、その見かけや言動に流されがち、なのだが、主君夫婦の傍近く控える彼女達には、御台所がその夫君の寵愛を一身に受ける、というよりも夫君の心をしっかりと掴んで離さぬひとであると承知している為、軽々しい振る舞いは何としてでも防ぐのが彼女達の使命の一つ、でもあった。ー、童女のような膨れっ面をする女主人を数人がかりで宥めながらも、御台所の意を叶える為、御台所が名を挙げた女房の元へと別の者が走る。
程無く件の女房が現れ、途端にあっさりと御台所が機嫌を直して元通り晴れやかな笑顔となるのに、周囲の者皆、警戒網を解いた。
御台所と、その雇用の経緯が少々特異な為に特別扱いされているーとその他の奥女中衆は不満を覚えているー女房の会話を、当然他の者達も耳にする結果となったが、あくまでも熱心で懸命なのは女主人だけで、聞き手達は皆一様に首を捻った。ーあくまでも心中で、ではあるが。
とにかく昨今では、主君の禁に触れぬ限り、御台所の意思は江城奥殿で最優先され果たされるべき、という考えの下に皆が従うのが倣いとなっていた。
当代将軍家に直に仕える小姓達は、城内の他の小姓、若党等の中でも選りすぐりであると、自他共に認めている。
当然、出自は明確であるだけでなく譜代の臣の家柄の出で、父祖代々御家に仕えているという自負心及び矜持はー大人達や年配者達と同様ー山の如く高い。
将軍家がその側近等と主に執務を執る表書院では、彼等はひっそりと目立たぬ影のような存在に過ぎないが、主が態々許可を与えて呼び出さない限り、年寄り職の者達ですら立ち入りを許されていない中奥では、将軍家の為に働くのは、彼等小姓達だけだった。
書状類の管理だけでなく、中奥で身形を整えるのを習慣としている将軍家に仕えるのも、彼等の仕事であり、新入りの浅薄なーなどと先達の者達は思っているー者達の中には、将軍家が女色を嫌い、あるいは特別な寵を得ることも可能なのではないか、などと早合点する者も居たが、中奥での将軍家の暮らしは、基本、将軍家の個人的政務や思索あるいは修練の繰り返しで、静謐かつ清潔な、年若いー本人的にはそうは思っておらずともー成長過程にある小姓等にとっても余計な人間関係や謀略に煩わされることが少ない、望ましい、ほぼ理想的な職場であった。
それ故に、小姓等本人だけでなくその父兄等の間で、将軍家付小姓の地位を獲得しようという競争は激しくなる一途であった、のだが。
とにかく城に上がる前、その後も厳しい競争を勝ち抜いてきた彼等は、滅多矢鱈な事では驚きはしないし、内心驚いたとしても表に出さないだけの修練と分別を得ている者達だった。
その日も、それ迄小さな座敷に籠もって大量の書状の決裁に追われていた主君の姿が消えたと気付いた際も、慌てはせずに、僅かに乱れていたーだが慎重に伏せられていたー書状の角を整え、墨と筆を取り替える。
主君の生真面目かつ謹厳な性格と行状を重々承知している小姓等は、主君が僅かな息抜きの為に散策に出掛けたのだろうと簡単に答えを出していた。
更に言えば。
小姓である彼等に何も言わずに出掛けた事から、主君は早々戻る心算ー御子様方の様子を見に、奥殿迄渡られてはいないーとの推測は正しく的を得、程無く、主君は恙なくー幾分沈んだ気配を漂わせながら、であったが、これは昨今の上方との軋轢を思えば、市井の童にだって簡単にその理由は思い当たるー戻って来て座に着いた。
何事も無かったように、時折紙が捲られる音、印判が押される音だけがする場を小姓等は退き、それぞれ、いつでも主君の求めに応じられるようにと、茶の支度やらーあるいはこれまた主君の規則正しい習慣通りー弓矢の支度などに別れる。
だが午後半ばの小休止ー日没迄あと一時といった頃合いかーの前に、時ならぬ、予期せぬ客が現れた。
将軍家御台所及び将軍家の御子達が住まう奥殿を実質的に差配する女房の一人ー如何なる若輩者だろうが新参者であろうがその名と評判及び姿を知っている、かつては大御所の側室であった女人ーが、快活かつにこやかに、だが実際の所は半ば強引に、庭先から縁へと上がり込んできたのだ。
「少々お邪魔致しますよ。あらあら。随分と積んでございますこと。昨今、猫も杓子も書状ばかり認めているのでしょうかしらねぇ」
「……」
「口というものがあるのですから、言葉で伝えれば宜しいのにねぇ。文字にしてしまえば後々迄残ってしまいますのに、困ったこと」
ほほほほほほ、などと高らかに笑いながら、しかし微妙に危うい事を言ってのける。
聞いている通りの女人だ、などと小姓等が思いつつ、退き気味になるのも当然だった。
また常の如く無表情でありながら、主君の気色に微妙な指図を読み取って、部屋の隅に控えていた者だけでなく廊下に座していた者達も更に下がって待機した。
故に、阿茶局と主君の「密談」の内容は小姓等の耳には入らなかったが、主君と主家に関する知識は正しく豊富であり、また賢明で思慮深くもある少年達は口を閉ざしたまま、余計な詮索ー主君が特に嫌い、怒りさえ覚えるらしき、主君の御妻子への関心や興味を抱くことーはしなかった。
あるいは近々、ちょっとした騒ぎが起きるのかもしれない、とはちらと思いながら。
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