小春凪
2016年12月25日7:00 公開 15
八重は、誇らしさと緊張相半ばといった心地で、直接お仕えすること叶った女君の様子、姿を窺っていた。
御用を待ち同室で控える、といった今のお役目初日でもある。
江戸へ下り、今や名実共に日の本の中心となった江戸の地のそのまた中心に堂々と聳え立つ江城に住まうようになって、既に十余年。
八重も最早一人前の侍女となり、しかもこの城奥の女主人である将軍家御台所御目見得の資格を持つ、つまりは直接将軍家御台所にお仕えし、そのご尊顔を拝し、お声を耳にし、更に言えば場合によってはその御身に手を触れることも許される身となった。
我ながら随分出世したものだ、などと、与えられた部屋ー彼女一人で寝起きすることを許された部屋、だ。但し、未だ彼女はかつて彼女がそうであったような、年若い部屋子など持っていない。まだまだ侍女として経験が足りぬと判断されている為であろうし、その評価は極めて正しいと八重自身納得しているーに戻って寸の間の休息を得る時には思うものの、務めの際には、一瞬たりとも気は抜けない。
そうした職場であり、務めである。
いとも尊き、また現世及びこの日の本において最も権勢と富貴を備えた女人である筈の女君が、憂悶抑え難きといった嘆息を吐き、哀しげに面を曇らせるのを認めて、八重は姿勢を正しー正確には前傾状態となりー己の務めを果たすべく、勇気を振り起こした。
「あ、あのっ御台様、何か御用がございませんか?!」
声音が上ずるだけでなく発音やら抑揚やらに国訛りが出てまた声も大きくなってしまったのに、しまったと思ったものの、何と言っても八重が女君に直接自ら声を掛けるのはこれが初めてのこと。
これ位誰にだってある失敗だ、寧ろ女主に対する敬意の顕れに過ぎないと心中では理性的に片付けながらも、八重の頬だけでなく体中が羞恥故の熱に支配されてしまう。
「……」
「あの、御台所様、何かお気に掛かることがあられるのならば、どうか御忌憚なくお申し付け下さいませ」
きょとんとした風に小首を傾げた御台所に続けて言う。
今度は言葉遣いも正しかった筈だ、と心中では未だ混乱しながら己に言い聞かせるだけの八重を、女君は更に簡単に動揺させてくれた。
「確か、そなたは……八重、でしたね」
「は?!は、は、は、はいぃぃ!」
まさか昨日の今日で名を覚えられているなどと思っても居なかった八重は、まさしくその場で飛び上がった。
ような気がする。自分では良く分からない。
だが御台所は特に反応を示さず、それどころか柔らかくふんわりとした笑顔を見せてくれたので、八重はますます落ち着かない、というよりも胸の鼓動が不規則かつ激しくなってきたような気がして、詫びの言葉や名を態々呼ばれたことへの礼を述べることは出来なかった。
「そなたは、幾つです?」
「は、はい」
無礼にならぬようにと肯へはしてみたものの、混乱と興奮の極みにある八重の頭脳は、全く働いてくれない。
(えっと。い、いくつって何?何のこと?身丈のこと?まさか、目方のこと??御台所様がそんなご質問をされるなんて、おかしな気がするけど。あ、それとも)
御台所の文机の上には、少し前遠慮がちに同僚が用意した茶菓子と先程迄御台所が手慰んでいた書らしきものが置かれている。
(あのお菓子を賜れるご心算でいらっしゃるのかしら。お優しい方だと楓様やふたば様も仰っていたし)
年上の同僚ーというより彼女の意識では上司達、だーの女主人への評を思い出し、それならば幾つとお答えするのが一番良いのだろうかと悩み始めたところで、開け放たれた障子戸越しに控える侍女等と目が合った。
侍女達が懸命に目配せらしきものをしていると気付いたものの、一体何の合図か咄嗟に判断が付かない。
ふと同室にも彼女より経験豊かな侍女達も居るのだと思いついて、八重はそちらへと視線を巡らせ、彼女の予想、というより願望通り、古参の侍女が大きく口を開けて動かしているのに注目した。
無論、声は出してはいないのだが、必死な状態であり、それ故に少々頭の熱も冷めてきた八重には今度こそ、簡単に理解出来た。
ー理解可能な程に短い語であった、というのもあるかもしれない。
「ああ!とし、年ですね!……なんだ、びっくりした」
流石に後の言葉は口中で呟いたのだが、侍女達は揃って呆れたという風に首を振ってみせるし、御台所は「なぁに?」などと言いつつ、八重からは一瞬注意を逸らしてくれた。
おかげできっちりと自信を持って、回答出来る。
「はい!私、28歳にございます。年が明ければ29ですわ!」
別に自慢にするような年齢ではないのだがー正直、江城以外の場所においては、行かず後家の大年増などと陰口どころか正面切って言われるとは八重だって承知しているものの。浮き世離れした江城、それも奥殿での暮らしにおいて、女の年齢を取り沙汰する者はいなかった。寧ろここでは、より長く、誠心込めて仕え続けることに価値を見出されるのだー、それでも己もやっと一人前の侍女としてこうして直接御台所と口をきくような地位を得たのだという誇らしさがまたも蘇り、声の勢いを抑えることが出来なかった。
御台所にも是非に、八重が信頼に値する、用事を申し付けても大丈夫な侍女なのだと訴え、分かって欲しいという気持ちが強い。
だが。
「……そう、そうなの」
何故か御台所は、八重のそれなりに経験もあるのだという自負を我ながら感じている年齢を聞いて、安堵するどころかその美しい花の容を曇らせた。
それどころか、大きな黒目がちの瞳を潤ませ、伏せてしまうのに、今度は八重だけでなく、その場にいる侍女等皆が落ち着きない、正確には慌てた騒然といった感も強い気配を募らせる。
(ど、どうしよう。私、何か無礼なことを??)
高貴な方々の要求や命には、それらが発せられる前に察し、用意するのが侍女の仕事ではあるものの、濫りにそのお心を勝手な推測で推し量ったり、あるいは無遠慮な問いや言葉で煩わせてはならない、というのは、侍女になる前、城に入った時にまず叩き込まれた城勤めをする者のいの一番の心得だ。
いくら女君が涙ぐんでいようが、余程女君が心を許しておられる相手ー例えば、御台所ご自身の乳母であったという民部局や、御台所専属の薬師でもあるふたば、御台所護衛侍女等の取締役である楓ーでない限り、こうした際に不躾な問いや慰めを不用意に発することはしてはならない。
分かっていても、目の前、手の届きそうな位置で、この上なく美しく尊いーそれでいて儚げで弱々しく見えるー女君が嘆く様を目にするなど、心の臓に良くない。
どころか、胸の奥がキリキリと痛むような気さえしてくる。
(わ、私、いきなりやっちゃった?!御台様を泣かせるなんて……ど、どうしよう。って、いうか、御台様すごく哀しそうだし、何とかしないと、又何か起きたら)
つい数年前迄上司達と共に働いていた際の心境迄蘇り、八重は一層激しい恐慌に陥りかけたが。
「……如何した」
突然、冷ややかに冷め切った男の声が聞こえたのに、八重の沸騰しかけた頭も一気に冷えた。
八重にも聞き覚えのあるお声、つまりはこの江城だけでなく、関東一円どころか今や日の本全土を遍く支配するといっても過言でないであろう、徳川二代将軍秀忠公そのひとの声であり。
例の如くいつの間にか正妻である御台所の寝殿に渡殿した将軍が、更に妻の居間にも突然乱入してきたーとは八重の意識だーのを、八重だけでなく侍女等皆が震え上がりながら認識したのだ。
「御台」
将軍家はくすんくすんと啜り上げている御正室の直ぐ傍に素早く腰を下ろすと同時に、その華奢で頼りない御身を引き寄せた。
妻の白い頬にそっと手を当てて撫でながら、上向かせる。
というのは侍女達皆がその場に拝跪する中、余りな衝撃に身も心も凍り付いてしまった八重一人、礼を忘れて呆然と主君夫妻を注視し続けていたから、なのだが。
「……この者が何か無礼を致したか」
無論常に冷静沈着謹厳かつ厳格な将軍が、八重の無礼を見逃す筈もなく、低い呟きと共に、これはもう穴があったら入りたいとか崖があるなら思い切って飛び降りた方がましという気持ちにさせられる睥睨を八重に向けてくるのに、八重の呼吸も簡単に止まる。
「御台。正直に包み隠さず申せ」
「ち、違います。違いますわ……だ、旦那様」
だが御台所が弱々しく夫君を呼び、それだけでなく小さな両手で確りと抱きついたのに、完全に将軍の注意は八重から逸れた。
というよりも、全神経を御正室に集中させているらしい。
「奥。そのように、泣くな。……どうしたら良いか、分からなくなるではないか」
「……っ秀忠様!」
本格的にーまるで長い間生き別れていた恋人同士のようだ、などと八重は場違いな感想を抱いたものの、未だ動揺仕切っている為、身動き出来ずにいるーひっしと抱き合う主君夫妻に、何時の間にか同僚の侍女達は潮が引くように下がっていってしまった。
少なくとも八重がはたと気付いた時には、既に侍女達の姿は影形すらなかった。
退出する前に己にも注意をしてくれれば良いのにと反射的に恨めしく思ったものの、あるいは親切というよりお節介焼きな性分が多分に多いのかもしれない同僚達は先程のように目配せや合図をしてくれたが、八重が呆然としていて気付かなかっただけかもしれない。
そう反省しつつ、何とか己も撤退しなくてはと思うものの、未だ腰が抜けている状態で動かなかった。
「江。そなたが嘆く様など見たくない。私は……未だ私の心が分かって居らぬのか?私のことを許せぬのか?」
「そんな、違います。そんな……そうではなくて」
どうやら御台所の方が先に気持ちを落ち着かせー少なくとも御正室の涙に未だ動転している将軍に比べれば、平静に立ち戻っていると八重は判断したー、小さな白い手を伸ばして、夫君の肩などを愛おしげに撫でている。
八重もー今迄はあくまでも遠目に、とか影ながらであったがー主君夫妻がとても仲睦まじく、時に目も当てられない程に親密に振る舞ったりするとは承知していたが、御台所の方がこのように積極的というより落ち着いた自信、のようなものを感じさせる振る舞いをするのを目撃するのは初めてだった。
確かに御台所の方が将軍より年嵩というのは八重等も城勤めの者の常識として心得ていたが、御台所ご本人はあくまでも麗しいだけでなく艶やかかつ可憐な、少女めいたひと、という印象が強いのだ。
「では何?……まさか、未だあの男のこと、を」
「違います!もう、秀忠様ったら」
自信なさげで弱々しくはあるものの、どこかしぶとく執拗さを感じさせる声音で将軍が問いかけ続けるのを、御台所はスッパリと否定し、更に夫君の頬に手を当てた。
「止めて下さいませ。私は最早、左様な無分別な年頃ではありませんのに。……いいえ、そうした年齢でない、ということを思い出してしまって……哀しくなってしまっただけです。誰のせいでもありませぬ」
「……」
「私も……私が、28の年でしたわね。関ヶ原の大戦が、起きてしまって。……貴男様が、ずっといらっしゃらなくて。お勝が生まれた時も貴男様はいらっしゃらなくて、私……凄く心細くて、寂しかったのです。貴男様や御父上はお優しいけれど、三人目の御子までも姫を産んでしまった私に、きっと失望されていると、思って、私」
「まだ左様なつまらぬことを!お勝は素晴らしい姫ではないか!いや、そなたが産んでくれた姫達は皆、美しいだけでなく健やかで優しく賢い、佳き姫達であるのに、そなたときたら」
「はい。それは……承知しております。でもあの時はすごく哀しかったのです」
何やら八重の知らぬ過去のごたごた(らしいと推測した。詳細は誰かに聞いてみようとついでに心決める)について、憤慨しているらしき将軍を、御台所はいとも容易く黙らせた。
小さな手を夫君の頬から口元に滑らせるだけでなく、何処か悪戯っぽいだけでなく甘やかで艶めいた上目遣いで見上げる。
「貴男様がいらっしゃらないと……私は生きていくのが辛い。貴男様なしでは生きられませぬ」
「……江、」
「なのに。貴男様ときたら。毎朝平気で私を置き去りにするのですもの!それにまたお泊まりで鷹狩りにお出かけになる予定があるって聞き及びましたわ。ほんにつれない、惨い殿方ですこと!きっとその内、年老いた私など放り出して、寺に押し込めて、新しい若いおなごを迎えるおつもりなのでしょう?!男ってそういう生き物なのだわ!」
「これ、止めぬか」
「いいえ!止めませぬ!はっきりと仰って頂かねば、私は納得出来ませぬもの!」
さ、仰って、仰って下さらぬ内は、表へお戻りにならないで、などと御台所が強気に、それでも驕慢な少女のような愛らしさで強請るのに、将軍は少し困った貌をした、ような気がした。
といっても、将軍は八重が知る限り一切己の感情や思いなど外には出さない、つまりは仏像以上に無表情なひとだ。
そんな八重の幾分悪口めいた感想に気付いた訳でもないだろうが、将軍がいきなり八重を振り返った。
どぎまぎしつつ、だが今度はきっちり頭を下げた八重に。
「其の方、暫く下がっていよ。……御台のことは心配いらぬ」
意外と優し気な言葉をくれる。
どうやら将軍は、主君の恫喝や睨みなどものとせず、主である女君の傍に控え続けた八重に一目置いたらしかった。
無論、実情は、将軍の好意的な評価ーもしくはただ単に八重を追い払いたいが為の甘言ーの真逆にあったりするのだが、八重は有り難く労いと受け止め、ようやく己の意思で動かせるようになった手足の力を総動員して、それでもがさつにならぬよう気をつけながら、その場を後退りし、女君の居間から出た。
何となく気になって、こっそり背後を振り返ってみると、将軍が少し身を屈め、御台所の耳元に何か囁きかけている所であった。
途端、御台所はぽっと何とも愛らしく頬を染めるだけでなく、晴れやかな満面の笑顔となり。
将軍はというと、少し拗ねた少年めいた表情を浮かべてぷいっとそっぽを向いてしまう。
何か見てはならない秘事を目撃してしまったような気がして、八重はその後はまっしぐら、勤番の侍女達が控える局へと向かった。
季節は冬真っ只中である筈なのに、日の本の中心となった城、更にその中核である奥殿には、何故か今を盛りの爛漫とした春の気配が漂っている。
またまたリクエストにお応えいただいてありがとうございます!!クリスマスプレゼントですね。八重ちゃん、出世したのですね!でもやっぱりそこは早く下がらないと(笑)。秀忠さんが何を言ったのか、聞きたかった~。
機会があれば、ふたばさん、楓さん、八重ちゃん&もちろん秀忠さん、江さんの話も読みたいです!!
暗い話・・・どういう話なんだろう・・・いずれにしても楽しみにしてます。ありがとうございました。
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