雪華
2016年12月1日7:00 公開 17
年の瀬が迫ってくると共に寒気も退っ引きならないものとなってくる、などと毎年思うことを利勝は思った。
尤も、問答無用に身を引き締めてくれる、上方特有の寒気は嫌いではない。
己の中の濁ったモノー迷いやらつまらぬ競い心やら欲やら、とにかく奉公には不適切と彼が考えている諸々の不純物ーを祓ってくれる、そんな気がするのだ。
肝心の主君は、他の供を連れて本日も朝から登城しているが、主君が留守であろうが、利勝の忠誠心は揺るぎない。
敢えて言えば、徳川家中の者達全員がそうした心構えである、と利勝は信じている。
実際主君も、そして徳川家当主である主君の父君も、彼等の滅私奉公に値する大人物なのだ。
正直、己が供をしていない現状は不満であるがー何と言っても主君は年が明けるとようやく十八歳という花も恥じらう、そしてその将来は洋々、伸びしろは無限大という年頃なのだ、と利勝は恥ずかしげも無く自慢に思った。
母君似の和やかに整った面立ちだけでなく、その身振り振る舞い全てがまさしく貴公子然とした、今や関東一円を支配する大大名、徳川家の御曹司、世嗣の君が彼の主君である。
(今年も波乱尽くめな年であった)
よくぞ無事で、などと思いかけるのをも、心中で厳しく改める。
(いや。まだ今年は終わってはおらぬ。僅かでも気を緩めれば、御家の危難を招くかもしれぬ。……若君を、いや殿をお守りするのが我が務め。一時なりとも、油断などあっては)
だが彼の考え、というより意識は完全に途絶えた。
手にしていた書簡もぽろりと落ちたが気付かない。
昨今は確かに屋内での務めが多いものの、徳川家当主は名うての戦上手、御家の家風も武技武芸を大いに奨励しているし、利勝自身、元々目は良い。
本城に比べれば坪庭と表現したくなるようなささやかな庭越しに、数ヶ月前より当屋敷の住人となった佳人がふいに軒先に身軽く現れた、その優美な姿に彼の視力だけでなく全てが集中しているのだ。
「姫様、なりませぬよ、お風邪を召しまする」
制止の声ー無礼にも徳川家世嗣の御正室を『姫』呼ばわりするのだから、豊家から御正室に従って来た侍女の一人なのだろう、とぼんやり利勝は考えたーに、奥方は軽く肩を竦め、袿の裾を無造作に摘まむようにして更に縁へと出て、縁近くに並べられた花の鉢を眺め出す。
几帳面な規則性で並べられたそれらが、利勝の主君から奥方への贈り物だということは利勝も承知していたから、微笑ましくも嬉しいようなー自分でも認めはしないが少々焦れるようなー心地を覚え、ついでに利勝は止めていた息を吐いた。
「御方様。左様な端近にお出ましになられるは余りに不用心にございまするぞ」
先程の侍女とは段違いに厳しく強くー無愛想にー声がけしてきたのは、利勝も十分以上に顔見知りな徳川家譜代の家柄の出である侍女、だ。
先日、江戸から下って来たばかりで、本来は主君付きの侍女なのだが、主君の留守中奥方の徒然を慰める為にと主君が奥方の元に寄越したのかもしれない。
徳川家譜代の家柄出の侍女達には屡々あることではあるが、かずはも小太刀と棒術はかなりの手前であるから、奥方の護衛にという心積もりが主君にはあるのだろう。
利勝の主君は年若いが慎重で、深慮遠謀、常に年齢に似合わぬ周到さでもって物事を進める若者であった。
かずはも妹のふたばもー更に言えばこれは正真正銘奥方付きとなっている、利勝のはとこだか従姪だか、あるいはもっと遠い間柄ではあるが紛れもない同族の澪もー幼い頃はとんでもないお転婆、というよりも悪賢く狡知に長けた悪童だった。
だが皆、何時の間にか、随分と厳格かつ分別及び経験豊かな侍女といった風格を身につけているのだから不思議なものだ。
主君や弟君、小姓達と共に悪戯の限りを尽くしていた、などとは誰もあの姿からは想像出来ないだろう、などと利勝は思った通り、素直で人を疑うことなど知らぬ無垢で純真な女人である奥方は叱られた童女の如く愛らしく首を竦め、しゅんとしながらそれでも口答えというより弁明らしき言を口にした。
「でも……雪が降りそうでしょう?……お花に何かあったら、旦那様がご落胆されると……思って……」
「花のことなど、殿にお任せしておけば宜しいのです。元々殿が持ち込まれたものなのですから、殿が責任持って扱われます」
「……」
主筋の、しかも本人も利勝等側仕えの者達と同じく絶対の忠誠を捧げている主家の若君の御正室に対して、何故あのように木で鼻をくくったような素っ気ない態度を取れるのか、と通常は思うような振る舞い、口調だ。
侍女本人の性格や性状を知らなければ、侍女が新参の奥方にやっかみやら妬心めいた魂胆を抱いているのかと疑うところだが、利勝等同輩先達及び重臣、更には若君本人に対してさえ大差ない無愛想さであるのだから、あの態度が常態なのだ。
あれで嫁に行けるのだろうか、などと余計なお世話な事を思ったものの、利勝は次の瞬間には昔馴染みの侍女に関する懸念やら心配は忘れた。
奥方がー全くの偶然なのだがー身体の向きを変え、その花の容が利勝の視界真正面に嵌まる形となったのだ。
(……何と麗しい)
恍惚とそんな風に暢気なことを思った利勝であったが。
残念ながら奥方の小柄で華奢な御身は、その他ぱらぱらと縁に出てきた侍女達に囲まれ、守られながら座敷の奥へと運ばれて行ってしまった。
(奥向きの薪や寝具など不足はないであろうか。豊家の姫君であられる御方様にお風邪など引かせては、徳川家の名折れとなろう)
それに若君の御子を産んで頂く大切な御方だ、と思ってしまい、利勝は先程の膨らみ浮ついたモノが一気に萎んだ状態で、しゅんとしつつ床から書簡を拾い上げ、文机にきっちりと並べた。
御正室が徳川家に嫁いで早三月。
場合によっては既に身籠もっておられるかもしれないと、御家及び主君への忠義の心から鑑みれば、何よりも喜ばしく望ましい予測が、利勝の心を何故か一層揺らす。
(いや。御方様はあの通り、余りにも御身細々しく繊細であられる。御身に何事かあってはならぬのだ。産はおなごの大事故)
そんな風に己の曖昧模糊としたーだが負の方向へ傾いている事だけは明らかなー心境に理由付けをして、利勝は仕事に戻った。
奥方がいみじくも言われた通り、今夜辺り雪となるかもしれない。
その前に色々としておかねばならない仕事も準備も山程ある。
恐れ多くも主君の内証を預かり、主君の身の回りのあれこれについて最終的な決裁を行うのは、利勝にとって何よりも重要で優先すべき執務だ。
無論、国主である大殿ご自身の御差配・御指図によるものだってあるのだが。
(大殿は確かに偉大な御方だが、若君も大殿の跡目を継ぐに相応しい御方。城でのお立場もご身分も今後ますます重いものとなっていかれるであろう。……今の内からそれがしが確りと財布の紐を締めておかねば。上方の商人等の良い様にされぬよう、常に見張っておらねばならぬし)
一層の倹約と御家にとって最適最高利の財務をと改めての決意が固まった所でまた邪魔が入った。
「御方様!」
「雪!雪だわ!ほら、私が言った通りでしょう?」
利勝が良く知るかずはらしくない、驚き動転したような呼び声だけでなく、小鳥のように愛らしく無邪気な歓声が聞こえたかと思うと、軽やかに艶やかな錦が曇天の下に躍り出る。
それだけでなく奥方の長い漆黒の、だが何とも表現し難い不可思議な輝きを放つ髪が揺れ、雲かあるいは天女の羽衣のようにたなびくのを見た。
「雪よ!」
白い両手を天に向けて差し出す、無邪気な少女のような姿及び振る舞いに、利勝もただ呆然と見惚れた。
満面の笑みだけでなく綺羅綺羅輝きながら踊る眼差し、明るく高らかな笑い声、舞うような足取りや挙措全てが、ただただ美しく可憐であるだけでなく清らかでー神に捧げる汚れ無き何処までも無垢で清純な供物のようだ。少なくとも利勝にとって、主君の奥方となった女人は、彼が知るおなごというモノとは全く異なる、別種の存在としか思えない。
『人』と表現するのも間違っているのでは、という気さえ、してくる。
寧ろ、今彼女の上に降り注ぐ、人肌に触れれば消えてしまう、儚く貴い新雪に近しいような。
「御方様!本当にもう困った御方ですね!」
「いけませんよ。御方様。左様に薄着で」
だが彼の夢想は、簡単に侍女達の厳しくも尤も至極な諫言ー殆ど叱責に近いーによって破られた。
二人の侍女ーかずはと澪だーは武芸者張りの無駄の無い動きで地下に降りると、素早く女君の両腕を捕らえ、半ば抱え上げるようにして縁へと戻した。
揃って奥方の足をてきぱきと濯いでやりながら、小言をつけつけと続ける。
「雪など珍しゅうもございませんでしょうに。裸足で降りられるなんてどうかしておられます。御御足をこんなに汚されるなんて!それに随分と冷えてしまっているではないですか!」
「誠に。澪の申す通りです。お怪我でもされたら如何するのです!尖った石でもあれば、容易く御方様の御御足などズタズタに裂かれてしまいますよ!」
脅し紛いの侍女達の言葉に奥方が身を戦かせるのが、利勝にも見て取れた。
それから。
「……ごめんなさい」
素直に童女のような謝り方をする奥方の足を捕らえたまま、侍女達は一層むっつりとした風を醸し出した。
が、利勝の見るところ、かずはも澪も不機嫌そうなのはあくまでも建前というか、己の動揺やら不安やらを誤魔化す為の韜晦に近いものでしかないのだろう。
「御御足を冷やしておしまいになってはお身体に障りが出まする!大事なお身体ですのに、余りに無分別、軽はずみなお振る舞いです!」
「左様です!今現在、御方様の御身は、女人では御家で最も大切と申しても過言ではございませぬ!重々注意して頂かねば、我等お仕えする者の気持ちを蔑ろにするおつもりですか!」
「……ごめんなさい、澪、かずは」
奥方は一層身を縮めながら今度は侍女達の名を呼んだ。
これには正直、利勝も驚いた。
澪だけならばともかく、奥方の御前にかずはが挨拶に伺候したのは、ほんの数日前のことだ。
名を直接呼ばれて途端、澪だけでなくかずは迄もがぴくりと肩を震わせるのを誤解したのか、湿った既に涙の滲む声で続ける。
「お、怒らないで。私……私が悪かったわ。もう、しないから」
「はい。お気を付け下さい」
「そのお言葉、お忘れなきよう」
ぶっきらぼうに纏め、奥方を立たせると、忠義な侍女ーといってもあくまでも御家にという意味だ。澪は元々、大殿の侍女であったし、今現在もおそらく大殿の意を受けている、とは利勝だけでなく若殿に仕える者達は皆承知しているし、勿論、若殿ご自身も了承しておられるだろうーは奥方から顔を背けるようにして「暖かい汁物を持ってこさせますから」などと付け加えた。
奥方が途端にぱっと明るく貌だけでなく声も輝かせ、「お汁粉が良いわ!」などと言うのにも、はいはい、と素っ気なく応じつつ、奥方の手を取るかずはに先立ちつつも、三人仲良く座敷の奥へ戻っていく。
(どうやら御方様は、澪だけでなくかずは迄をも見事陥落させたらしいな)
二人共まだまだ修行が足りぬなどと分別臭く思った利勝であったが。
何時の間にかー気配など皆無であったのにーぬぼぅっと己の前に立つ痩身にぎょっと腰を浮かす。
「こ、これは、殿、いつの間にっ……あ、いや、お戻りなされませ」
「……ああ。随分前から居たのだがな」
皮肉の籠もった肯えに返しようが無く沈黙を守っている内に、主の秀忠は彼の前を通り過ぎて、自室へ入ってしまった。
背は随分と伸びているが、利勝にはまだまだ傷付きやすく繊細で尖っていると見える後ろ姿を見送ってから、利勝は何となしに己でも理由の分からぬ嘆息を吐く。
(いや。まだまだ、これから、なのだ)
津々と降り込みだした雪を、今度は現金にも、年末年始の務めにはやや厄介で邪魔だなどと認識しつつ眺める。
彼等を中心に吹き荒れる嵐の前触れなど、未だ微塵も無い頃。
私の勝手な願望をリクエストとして受け取ってくださって、とてもうれしいです。「かずはさんが出てくる新婚時代の話」、あまりにも私の要望ずばりでなんだかこっ恥ずかしいような(笑)かずはさん、やっぱりあの手厳しさがすてきですー。確かに誰かが出しゃばってる(笑)。でも利勝さんも好きですよ。夫婦の中を取り持つために、ふたばさん達が活躍する話も好きでした。徳川家の侍女たちが江さんを守って支えていくっていう感じが好きなんです。勝手な願望がいくつかまだありますので、あちこちでなんか言ってるかもしれませんが(笑)、こんな感想を持つ人もいるんだなーくらいに思っていただければ幸いです。基本的には江さんと秀忠さんのラブラブ話がこれからも読めればと願っています。少し早いクリスマスプレゼントをいただいたみたいで、うれしかったです。ありがとうございました。長文失礼しましたー。
拍手、投票、コメント等ありがとうございます♪
リクエストについて、要件満たすことが出来ていたようで良かったです☆
これからも楽しんで頂けるよう頑張ります。自分なりにv
そろそろ正月ネタも(季節柄)考えたいところですね。何にしようかなっと。
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